天照大神を奉斎する倭姫命は弥和の御室嶺上宮から旅立ち、宇多秋宮を経て佐佐波多宮に遷られた。佐佐波多宮は現在の宇陀市榛原区山辺三に所在する篠畑神社付近とされる。此処が日本書紀の記事にある菟田の筱幡(ささはた)と思われる。
篠畑神社は国道一六五号線沿いにある。私共がこの神社を尋ねたのは、三年前の春まだ浅い三月の中旬だった。乳白色の鳥居の先に数十段の石段がある。登ると台地が拡がり社殿があった。山腹にあることで周囲は樹齢を経た大木が繁る。祭神は天照皇大神。社記に拠れば、頓宮の置かれたこの地に、天照大神を主祭神として鎮祭したのが本社の創始とある。頓宮とは仮宮、行宮のことで祭神や天皇の旅先での住居だが、『皇太神宮儀式帳』の「佐佐波多宮」の記述で、平安初期にはこの社の原形が成立していた可能性がある、と謂う。
しかし社殿は昭和十五年に県社指定を機会に造営され、天照皇大神を奉斎したとも謂う。
本殿の右手には、伊勢神宮鎮座二千年の祝賀に合わせて建立された佐佐波多姫を祀る境内社がある。『倭姫命世記』に、倭姫命が夢に見て、この地で出会った童女の大菜禰奈(おおうねな)と大荒命の姉弟が誠意を尽くして仕えることで、禰奈を斎宮に代わって大神を奉祀する大物忌に任じたとある。この大菜禰奈が実は佐佐波多姫命であるとして祀られた。
篠畑神社から東に向かうと、室生を経て伊勢本街道の要衝となる宇陀郡御杖村神末に到る。名張川支流となる神末川を東に望む小高い杜に、倭姫命の杖を祀るという式内社・御杖神社(宇陀郡御杖村神末)がある。樹齢数百年を超える杉木立のなかに鎮座するこの神社も、佐佐波多宮の比定地である。御杖村の地名は、倭姫命が杖を置き、行宮を造られて休まれたことに由来する。伊勢に向かわれた倭姫命が、この地に杖を忘れて行かれたとする説もある。神末(こうづえ)の地名も、神杖(こうづえ)から転訛したと謂う。
だが、御杖神社の社名は幾度か改称されている。度々造営された本殿に棟札が残され判明している。中世の末頃の天正二十三年(一五五四)には上津江之御宮といわれ、慶長十八年(一六一三)には國津大明神社、その後も、上之宮九頭大明神社、牛頭天王社、牛霊天王などと称された。明治二十四年には素盞之男神社、そして明治三十年以降に現社名になったと謂う。上津江(かみつえ)は神の杖の意とする説もある。祭神には久那斗(くなど)神、八衢比古(やちまたひこ)神、八衢比女神の三柱を祀る。久那斗神とは伊弉諾尊が黄泉国から還られ、阿波岐原で禊をされる際に投げ捨てた杖から生まれた神である。道路の神として災禍を防ぎ止め、行路安全を守護する神である。また八衢とは辻を謂い、八衢神は辻の要所で悪禍や疫病を塞ぎ護る神である。
この御杖神社は明治になり近郷の多くの神社を合祀した。山神社だけでも二十社を超えるようだ。
佐佐波多宮の比定地とするもう一社は菅野川沿いにある③四社神社(御杖村菅野)である。創祀は不詳だが、室町末期頃には現社地の西北方一町の処に鎮座していた。現在の地は、もとは天王社の境内とされる。近世、大和地方からの伊勢参拝の行き帰りには、当社に詣でるのが慣わしだったという。
四社神社は全国の各地に点在する。四柱の神を祀る神社と、四社を合祀する神社とがある。当社は四柱神社とも言われ、伊邪那美命・大日孁貴尊・天津児屋根命・誉田別尊を祀る。さらに天照大御神、春日大神、八幡大神、熊野大神の四柱を祀って四社大明神とも称した。こちらも棟札に拠れば、古くは春日大明神とも号し、天文二十四年(一五五五)、元亀元年(一五七〇)といった年号が残されているという。
本殿の右奥には倭姫命が手を洗われたという井戸があり、小祠が祀られている。そのときに口を漱ぎ、すがすがしい野原、と言われたことが菅野(すがの)の地名の起りという。また後に、斎宮となられた雄略天皇の皇女・稚足(わかたらし)姫(ひめ)がこの行宮跡に宮を造られた。そのときには酢の泉が湧き現れ、香りが手に移ったことで此処を酢香野(すかの)ともいう。
その他にも御杖村の周辺には倭姫命にまつわる言い伝えが多い。菅野川支流の西川に架かる駒繋(こまつなぎ)橋の名称は、袂にある杉の木に倭姫命が馬を繋いだことに拠る。街道の難所の鞍取坂は、坂道で倭姫命の馬の鞍が飛び、鞍飛坂がのちに鞍取坂になった。倭姫命が腰を掛けた石や、駒を進めた所などもある。
また当初、篠畑神社の摂社で天照皇大神を祀る葛神社(宇陀市榛原区山辺三)も比定地として挙げたが、資料蒐集の時点で典拠不足であり、現地調査の対象から外した。
そして世記に、「六十四年丁亥、伊賀國の隠(なばり)の市守宮(いちもりのみや)に遷幸(みゆき)なりまして、二年斎(いつ)き奉る」とある。倭姫命は六十四年、伊賀国の隠の市守宮に遷幸され、その地で二年の間大神を奉斎された。
倭姫命が大和国から伊賀国に遷られたとする市守宮の記事は世記のみで、書紀にも儀式帳にも無い。世記の遷宮記事は史実の確証を欠くが、市守宮の所在を想定する郷土史家の資料等で、比定地を五ヵ所とした。私共がこの地を訪れたのは、涼風の立ち始めた秋であった。
(八)市守宮(世記のみに記述)
① 蛭子神社 三重県名張市鍛治町
② 田村大明神(現・小祠。美波多神社に合祀) 三重県名張市新田・美波多神社
③ 名居神社 三重県名張市下比奈知
④ 宇流冨志禰(うるふしね)神社 三重県名張市平尾
⑤ 三輪神社(跡地に小祠・稲荷神社に合祀) 三重県名張市瀬古口丁ノ坪・稲荷神社
隠(なばり)は名張の旧称である。佐佐波多宮より隠までの名張街道は、かつて壬申の乱で皇位に就いた大海人皇子が往来した道でもある。
①蛭子神社は、八重事代主命、三筒男命、伊邪那岐命、火之迦具土命、天照大神を祀る。毎年二月八日の「八日えびす」には「蛤市」が立つことでも有名である。地誌にある「隠市守宮は今名張の市中に坐す小祠是也。俗之を恵美須堂と云ふ」を根拠にしてか、拝殿入口には新しい「隠市守宮」の額を掲げていた。
②田村大明神に就いて江戸時代の国学者・伴信友は『倭姫命世記考』で、隠市守宮は「名張郡東原村ニ、田村大明神トイフ小祠アリ。是乎」と述べているが、田村大明神は美波多神社に合祀された。美波多神社は十七世紀中ごろの新田開発に伴い、天照大御神、応神天皇、天児屋根命を祀る三柱神社建立を創始とする。明治の末には新田区内の全神社を合祀して大御原神社と改め、さらに三村の神社を合祀した三神社を合祀して現称の神社となった。そのために祭神には先の三柱の他に十二柱を祀る。平成十年の台風で壊滅的な被害を蒙ったが新しく修復されている。
しかし台風の影響か神社の樹木が少ない。
(奈良 泰秀 H20年3月)