神戸神社(穴穂宮)

大和国の宇多から伊賀国・隠(なばり)(名張)の(九)市守宮(いちもりのみや)に遷られた倭姫命は、此の地で二年の間、天照大神を斎(いつ)き奉られた。市守宮の比定地は五ヵ所とした。前回紹介した①蛭子神社、美波多神社に合祀された②田村大明神のほか、三社である。

その一社、③名居(ない)神社(三重県名張市下比奈知)は式内社で、かつては「大己貴社」と称された。江戸時代には國津大明神を祀り、比奈知川に点在する國津神社の惣社であったという。大己貴命を主祭神に少彦名命、天児屋根命、市杵嶋姫命、事代主命、蛭子命を祀る。

社頭に到るまで細長い参道が続く。社碑には、推古七年に大和地方が中心の大地震があり諸国に地震の神が祭られたが、伊賀では当社がそれであろう、と記している。

「なゐ」とは地震の古語である。『日本書紀』推古天皇七年・四月二十七日条に「地(なゐ)動(ふ)りて、舎屋(やかす)悉(ことごと)に破(こぼ)れぬ。則(すなは)ち四方(よも)に令(おほ)せて地震神(なゐのかみ)を祭らしむ」とある。式内社で、このとき祀られた地震神の「なゐ」の名称が残る全国で唯一の

神社とも謂う。祭神に天照大神の神名は無いが、倭姫命が足を洗ったという濁池、国津神の大神への御田の献上、大神に鮎を献じたという河川の石碑、神宮領のこの地から神戸の産物供進など、附近には元伊勢に繋がる伝承が散在する。

次に式内社・国史現在社(六国史に見える神社、国史所載社)で、旧縣社であった④宇流冨(ふるふ)志禰(しね)神社(三重県名張市平尾)は、名張川岸の北側、市街地に近い小高い丘にある。宇流冨志禰とは「潤(うるお)ふ伏水(ふしみ)」、豊富な地下水の意である。主祭神の宇奈根神は、河岸の平地を表す宇多野から転化したもので、水に関わる神と謂われる。社記に拠れば、神武建国の始め一国の瑞穂と氏族の安寧を祈願するために祀られた。他に天照大神、武甕槌神、経津主神、天児屋根神、姫大神を配祀する。天照大神は後に奉祀したようだ。

弓削道鏡を寵愛した第四十八代・稱徳天皇の御世に武甕槌命が常陸国鹿島より大和国御蓋山(みかさやま)に遷祀される。その途中、留まられた伊賀国夏見郷が当社と謂う。因って春日神四柱を祀り、かつては「お春日さん」と親しまれた。道路を跨いだ街なかの大鳥居から神社へと道が続く。参道には奉納の灯籠が整然と立並ぶ。崇敬を顕れだ。神社を尋ねたのは秋だったが、参集殿では結婚式が執り行われていた。祭礼一色となる大祭は、いまだに伝統的な頭屋制で営まれるという。石造りの手水鉢は市指定の文化財で三百年以上前のもの。鰐とも見える面相から水が流れ出ているのはご愛嬌だ。

⑤三輪神社(稲荷神社に合祀。名張市瀬古口丁ノ坪)は、中村五百刈(ごひゃくかり)という集落に鎮座していた。明治四十年の神社改正法により他所の金刀比良神社、愛宕神社と共に稲荷神社に合祀された。現在、三輪神社跡地には地元崇敬者が鳥居と小祠を建立している。

三輪神社を合祀した稲荷神社は、宇流冨志禰神社とは名張川を挟んだ対岸に位置する、落ち着いた小社である。社記には、四百有余年前、稲荷大神が山城国伏見より河内国・大和国を巡り伊賀国の当地に鎮座したと謂う。また慶長年間に京都伏見大社より分霊を勧請して五穀豊穣を守る祖神とした、との説もある。祭神は宇迦能御魂神、大物主神、火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)。秋の例大祭では稲荷大神と並び、三輪大明神に神饌を調進する慣わしという。この地には天皇の食膳に供する鳥や魚介を採る施設の厨司(くりやのつかさ)が置かれており、書紀の天武十五年六月二十二日条に「名張厨司に災(ひつ)けり」(火災があった)の記事も見える。

そして崇神天皇六十六年己丑(つちのとうし)、「同じ國の穴穂宮に遷り給ひ、四年を積(へ)て斎き奉る」と『倭姫命世記』は記す。六十六年、倭姫命は同じ伊賀国の(十)穴穂宮に四年の間、天照大神を斎き奉られた。そのとき、伊賀の国造が山の神戸や御田、鮎を獲る仕掛けの場所など、大神の朝夕の御饌(みけ)(食事)のために供進した、とある。『皇太神宮儀式帳』は佐佐波多宮の次に“市守宮”は見えず、次の仮宮を「“伊賀穴穂宮”に坐しき」と記している。では穴穂宮とは何処か。

(十)穴穂宮(世記。儀式帳・伊賀穴穂宮)。比定地は三ヵ所である。

①     神戸神社  三重県伊賀市上神戸

②     猪田神社  三重県伊賀市猪田

③     江寄山常福寺  三重県伊賀市古

①神戸神社(伊賀市上神戸)は、往古より木津川(旧暗崎川)西岸の現在地に鎮座し、穴穂宮、穴穂神社と称された。明治四十一年に近郷の諸社三十数社を合祀し、社号もその時に現在のように改称した。それ故祭神も多く、大日孁貴尊を主祭神に、天児屋根命・倭姫命・天太玉命・栲機千千姫命(くちはたちぢひめのみこと)・天手力男命ほか十三神を祀る。鳥居をくぐると左手に社殿、右側には“天之真奈井戸”がある。神宮別宮・倭姫宮鎮座八十年を記念し、文献に依って採掘したところ水脈に達し神水が湧出した、と平成十四年の銘にある。

この神社の本殿が新しいのは、伊勢神宮・風日祈宮の遷宮後の古材を下賜され、式年造営を二十年毎に行っていることに依る。燈籠に神館大神宮、碑に皇大神宮由緒古蹟と記すが、伝承などからみて元伊勢を称するに相応しい神社である。塩干の初鮎奉献や神宮神田の御田植奉仕など、神宮との関係も深い。

式内社・猪田神社の論社②猪田神社(三重県伊賀市猪田)も古くから天の真名井の伝承を持つ。井戸は東に少し離れた処にあり、倭姫命が穴穂宮に滞在したときに穿った井戸と謂う。社殿西側の磐座や神社裏山の六世紀の古墳は、神社創建の古さを物語る。祭神に武伊賀津別命ほか合祀神多数を祀る。

③江寄山常福寺(三重県伊賀市古)附近にも大神に御饌を供進した土地との伝承がある。

そして穴穂宮から同じ伊賀国の(十一)敢都美恵宮(あえのつみえのみや)(儀式帳には阿閇柘植宮)に遷り二年間。淡海国(滋賀県)の(十二)甲可日雲宮(こうかのひくものみや)で四年。同じく淡海国・(十三)坂田宮(儀式帳・淡海坂田宮)で二年間。更には美濃国(岐阜県)の伊久良河宮(儀式帳・美濃伊久良河宮)で四年間斎き奉る。

そこより尾張国(愛知県)・(十五)中嶋宮、遠江国(静岡県)・浜名宮を経てUターンし、伊勢国(三重県)に入る。(十六)桑名野代宮(儀式帳・同)で四年間奉斎。鈴鹿国(三重県)・(十七)奈其波志忍山宮(なごわしのおしのやまのみや)(儀式帳・鈴鹿小山宮)に立ち寄り、伊勢国・(十八)阿佐加藤方(あさかのふじかたの)片樋宮(かたひのみや)(儀式帳・藤方片樋宮)で四年間。更に(十九)飯野高宮(儀式帳・同)で四年間奉祀。その後同じ伊勢国内の周辺の(二十)佐佐牟江宮(ささむえのみや)(儀式帳・多気佐佐牟江宮)、(二十一)伊蘇宮(いそのみや)(儀式帳・磯宮)、(二十二)大河之瀧原宮、(二十三)矢田宮、(二十四)家田田上宮(儀式帳・宇治家田田上宮)、(二十五)奈尾之根宮(なをのねのみや)など奇妙な順路で辿り、遂に五十鈴の河上の(二十六)五十鈴宮に到る。

此処で天照大神を奉じた倭姫命の、長い巡幸の旅は終わりを告げる。伊勢の神宮の創始となる。

これまで元伊勢比定地と選んだ百二十社全てを廻った。後半は紙面の都合で端折ったが、いつか機会があれば記したい。

( 奈良 泰秀   H20年4月)