大正末期から昭和の初めにかけて『竹内文書』を世に顕した竹内巨麿師は、富山県の出身だが京都鞍馬山で修行し、茨城で立教している。巨麿師は、身を守るために自害して果てた母親の仇を捜し求めて各地を廻ったと云っている。遂に常陸国で仇敵の所在を突き止めるが、相手の士族はすでに病没。そこで自らも一度は死を覚悟するが思い留まったという。だがのちの昭和五年に発行された新聞に“父の仇は角力取り”と語っているので、仇敵の存在の真偽のほどは判らない。
明治四十三年秋、巨麿師は茨城県磯原天津山に神殿を建て“人民を救済し、皇道の興隆を計り、国家に力を盡す”ために皇祖皇太神宮天津教を興す。教典とされる『竹内文書』には、国体の根幹に据えられた『記・紀』の記述とは異質の皇統譜が記され、神武天皇以前には五百十余世の天皇が存在している。世界は幾度となく天変地異に襲われ、人類滅亡の危機に見舞われる。万国の棟梁たる世界天皇はその度に天空浮船で地球から逃れ、危機が去ったあとに戻って来て世界文明の再建を果たす。世界の中心は日本の富山であり、神都が飛騨位山に置かれ、神代の神々は億万年百万年単位で在世したことが語られている。
この気の遠くなるような年月に亘り世界を統治した天皇を称えた『竹内文書』が、なに故に繰り返し弾圧され弾劾されたのか。
それは国体に認められた皇統に繋がる神話から逸脱した別な神話の出現が、許容されなかったことに他ならない。例え虚構であったとしても、神武天皇から始まる万世一系を揺るがすような神話の歴史は必要なかったのだ。
巨麿師の逮捕四ヵ月後の昭和十一年六月、京大で倫理学の教鞭を執っていた無神論者にして哲学者・狩野亨吉博士の『天津教古文書の批判』が、雑誌『思想』に掲載された。この学術論文は『竹内文書』を偽書として断定したが、江戸時代の思想家・安藤昌益を世に出したことでも知られる狩野博士がこれを発表したタイミングの良さは、体制側に仕組まれたという見方がある。そして社会にその偽書説は定着し、現在も評価は変わらない。
話しは変わるが、二十年近く前に修行中だった私は師の先々代宮司から一冊の本を渡された。「気を入れて読むと頭がおかしくなるよ」と言われて手にした本は、矢野祐太郎の予言書とも謂うべき「心霊正典」だった。
矢野は明治十四年、東京築地に生まれている。海軍の逸材と言われながら大正十一年に海軍大佐で退役し、神霊研究に没頭している。一時期、大本に入信して出口王仁三郎の満蒙入りの手助けをするが、その後、大本と袂を分かち、昭和五年に皇祖皇太神宮を訪れ『竹内文書』と出会う。矢野はここで強い衝撃と感銘を受けたようだ。入会した天津教もやがて脱会はするが、矢野は『竹内文書』を神界からの神意を現界に投影したものと捉えた。そして独自の神霊観と現界観を確立させ、教団・神政龍神会を結成する。その結成メンバーには華族や元警視総監・軍人を引き入れ、現界建替を計る。『竹内文書』をベースに霊媒の奥方の霊言とで『神霊密書』を完成させた矢野は、宮中の女官を遣いこれを天皇に献本することに成功した。更に神意によって万国棟梁たる天皇に自覚を促す拝謁を画策するが、昭和十一年、矢野は特高に検挙される。余談だが、有罪にするための立件不可能で官憲は獄中で矢野を毒殺してしまうが、この矢野と神政龍神会をモデルとして、作家松本清張氏は『神々の乱心』を著した。清張氏にはこれが絶筆となったが、週刊誌での連載は次の週の発売が待たれる読み物だった。
色の濃淡はあるだろうがこの『竹内文書』の影響を受けている新宗教教団は、解脱会を始め幾つかある。カルト教団オウム真理教は『世界再統一の御神勅』を終末論として構築した。『竹内文書』が神都とした飛騨位山山麓に光神殿を建て、近くの高山市に本部を持つ崇教真光も、先の矢野祐太郎の『心霊正典』を通して『竹内文書』を教義に反映させている。“子供の頃、岡田光玉さんがよく出入りしていましたよ”と述懐するのは皇祖皇太神宮現管長の竹内康裕氏。康裕氏は『竹内文書』類を利用して活動している教団の実情を語り、某書道家によって神代文字がデフォルメされて世に出されたことを嘆く。また『竹内文書』を偽書と断じたアカデミズムが、膨大な文献資料の中のたった五枚の写真に拠った姿勢を激しく突く。 私は新たな皇祖皇太神宮の活動を目指す康裕氏に『竹内文書』を取り入れた教団の連合体を創ったらどうかと提言している。いずれにしても今後は『竹内文書』が歴史書としての荒唐無稽さを指摘される前に、宗教書としての価値を世のアピールして行くべきではないかと思う。
(奈良 泰秀 H16年5月)