倭姫命世記では、崇神天皇五十八年、豊鍬入姫命は吉備から倭の“彌和(みわ)の御室嶺上宮(みむろのみねかみのみや)”へ還り、此処で天照大神を二年間奉斎される。その後、倭姫命に引き継がれて各地を遷幸される大神が、この倭では三たび奉祀されたことになる。倭の地とは全て同じ場所か、或いは二ヵ所が同一で一ヵ所が違うのか、三ヵ所とも違う場所なのか、さまざまな見方ができる。“彌和の御室嶺上宮”は、皇大神宮儀式帳などで“美和乃御諸宮”または“美和乃御諸原斎宮”として現れる。
以前、小欄で、神社本庁では元伊勢に就いて特に押さえていないとしながらも、教学にいる後輩が送ってくれた資料では、御室嶺上宮と笠縫邑は同所か?、としていると述べた。笠縫邑に就いては諸説ある。笠縫邑の比定地で最も有力なのが三輪山麓の“三輪の檜原”、大神神社の摂社・檜原神社である。世記の謂う弥和の御室嶺上宮とは、摂社・末社を含めた大神神社の領有する神域の中から比定するとすれば、間違いはないと思われる。
國學院大學の名誉教授だった樋口清之先生は『倭笠縫邑の神蹟』で、「倭笠縫邑は、崇神天皇時に於ける固有地名を指し、美和乃御諸宮や美和乃御諸原斎宮は、それが存在する地が美和(三輪)と汎称せられる地方であったために、之を別の方面から呼び更へたものと考えられる。」そして、「諸種の事情より考慮して、崇神天皇宮域(磯城瑞籬宮)よりも外方なるも、皇女の御祭祀と言ひ、又、“遷祭の夕、宮人皆参る”ことを得た皇居よりあまり離れてないところであり、かつ、土地高燥、大和教化の要より国内に於ける眺望豁達の聖域であった、と考えられる。」と謂われている。
この“遷祭の夕、宮人皆参る”は、古語拾遺の「其の遷(うつ)し祭れる夕(よ)、宮人(みやひと)皆参りて終夜宴楽(よもすがらとよのあかり)す」を世記が、「その遷(うつ)し祭る夕、宮人(みやひと)皆参りて終夜宴楽(よもすがらとよのあかり)し歌ひ舞ふ」と借用したものだ。
このように世記は書紀や古語拾遺、皇大神宮儀式帳、止由気宮儀式帳などからの引き写しが多い。前回触れたが、倭笠縫邑には大神の御霊代だけではなく草薙剣をも遷し祀ったとする。
「倭の笠縫邑に就きて、殊(こと)に磯城(しき)の神籬(ひもろぎ)を立てて、天照太神及び草薙剣を遷し奉り、皇女(ひめみこ)豊鍬入姫命をして斎(いつ)き奉らしめ給ふ」と世紀にある。これも、「倭の笠縫邑に就きて、殊に磯城の神籬を立てて、天照大神、及(また)、草薙剣を遷し奉りて、皇女(ひめみこ)豊鍬入姫命をして斎(いは)ひ奉らしむ」と古語拾遺を引き写したものだ。
世記は、大神が豊鍬入姫命に託される崇神紀六年条を織り交ぜ、他書の所伝を転用しつつ時代も遡らせた。
垂仁二十五年(「紀・一書(あるふみ)」では翌二十六年)の、伊勢まで辿り着いた僅か一年ないし二年の間の大神鎮座の記事を八十七年間に膨張させ、豊鍬入姫命と倭姫命とが奉斎する大神遷幸記を創りあげた。(神宮司廰編「神宮史年表」では垂仁紀二十五年条を採らず、一書の説に拠って“崇神二十六年、この年、五十鈴の川上に皇大神宮〔内宮〕を建つ”としている。) その伝で、垂仁紀二十五年条の記事から三十五年遡らせ、豊鍬入姫命から倭姫命との交替を、崇神天皇五十八年に弥和の御室嶺上宮で行なったと創作した。これより倭姫命の巡幸は始まり、その後の三十五年に亘る巡幸記として綴られる。
だが、これも記紀に一世紀近く遅れて成立した皇大神宮儀式帳に拠っている。儀式帳は鎌倉時代に成立したと見られる世記の底本でもある。古代天皇の長い寿命が不自然なように、各地を巡る豊鍬入姫命と倭姫命との長過ぎる奉斎の年数が適当とは思えない。比定地や伝承は検証されるが、推古天皇以前の書紀紀年は後に推計されたものとすることで、年数を絡めての研究はあまり見受けられない。
儀式帳に、「大神を戴き奉りて、願(ね)ぎ給ふ国を求め奉る」とある。大神の遷幸する具体的な地名を挙げ、その土地の首長が神の御田や神戸を献上したことを伝えている。世記も儀式帳に倣い、各地の国造が競うように御田を献上していることを記している。
そして弥和の御室嶺上宮の比定地とされる処は
(六)弥和の御室嶺上宮(世記に記述。儀式帳には美和乃御諸宮)
① 笠縫邑と同じか 奈良県桜井市三輪
② 大神神社 奈良県桜井市三輪
③ 高宮神社・神坐日向神社(大神神社摂社)
④小夫天神社 奈良県桜井市小夫
①笠縫邑と④小夫天神社に就いては、以前、取材の経緯を記しているので割愛する。
元伊勢の取材で最初に訪ねたのは②大神神社である。國學院の後輩となる院友も奉職しており、いろいろと資料なども頂戴した。
大神神社は大和国一宮で旧官幣大社である。わが国で最も古い神社とも称され、大物主大神(おほものぬしのおほかみ)を主祭神に、大己貴神(おほなむちのかみ)、少彦名神を配祀する。
大和盆地の東南に位置する円錐形の雅(みやび)な山容の三輪山を、太古より神奈備の神体山と仰ぐ。神宿る山中の樹木には斧を入れることなく、大樹が空を覆う。いまも神殿を設けず、拝殿奥の三輪鳥居ともいう明神型鳥居を三つ組み合わせた“三ツ鳥居”を通し、神霊鎮座の神体山を拝する。山中には磐座の巨石群が点在し、古代祭祀の信仰形態を残している。とくに主要な三ヵ所の磐座、奥津磐座、中津磐座、辺津磐座は夙に知られている。
大物主神とはミステリアスな神だ。古事記では大神神社の鎮座縁起が語られる。国作りに協力してきた少彦名神が常世国に去り不安になっている大国主命の前に、海上を照らして近寄ってくる神がいた。私の御魂を鎮め祀れば国作りに協力すると言い、「吾(あ)をばも倭の青垣(あをがき)東(ひむがし)の山(やまの)上(へ)に斎(いつ)き奉(まつ)れ」と言った。そして「此は御諸山の上(へ)に坐(ま)す神なり」とある。御諸山は三輪山である。古典での三輪山の初見であろう。国の主宰神の意味を持つ大国主命は、出雲を代表的に顕す葦原中国(あしはらのなかつくに)の支配神だ。『出雲風土記』にこの神名は無いが、後に政治的立場から出雲の神々を一神に統合して命名したと思われ、多くの異名を持つ。記にも出雲の国作りの神の大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)、勇猛な武神の葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)、風土記に無く大和での別名とされる武神の八千(やち)矛神(ほこのかみ)、同じく風土記に見えない現し国の魂(玉)を神格化した宇都志国玉神(うつしくにたまかみ)などが記される。書紀(一書)には、大國主命は、亦名(またのみな)は大物主神、國作大己貴(くにつくりおほなむちの)命(みこと)、葦原(あしはらの)醜男(しこを)、八千矛神、大國玉神、顯國玉神(うつしくにたまのかみ)とあり、その子は皆で百八十一柱という。
書紀にも記と同様の記事がある。不思議な光が海を照らして忽然と浮かんでくるものがあった。そして“私がいたから大きな国造りの功績を立てることができたのだ”といった。お前は誰だ、と問う大己貴命(大国主命)に、“私はお前の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)だ”と答え、“私は日本(やまとの)國(くに)の三諸山に住みたい”と言う。そこで宮を彼處(そこ)に造って住まわせた。これが大三輪の神である、とある。
(奈良 泰秀 H19年9月)