元伊勢の比定地とされる神社や土地を周ることで、僅かな史実と大半が架空の伝承が渾然として土着化し、その土地で独自の信仰を生み、現在も息づいている現実を視ることができた。豊鍬入姫命と倭姫命が天照大神を奉じて各地を巡幸したとされる伝承は、例え架空であってもその地での神社由緒となった。まだこれから尋ねる比定地もあるが、僻地にあっても清掃が行き届いて清浄な気を漂わせている神社、落魄して荒れたままの神社、都会の商業化した神社など神社もさまざまだ。
『倭姫命世記』には豊鍬入姫命が、倭(やまと)、但波(丹波)、再び倭、そして木(紀伊)の国を巡り、「吉備の國の名方濱宮に遷り給ひ、四年斎き奉る」とある。この名方浜宮についての記述も世記のみで、日本書紀にも皇太神宮儀式帳にも現れない。比定地とされる処は、和歌山に二ヵ所、岡山に五ヵ所、広島に一ヵ所の、八ヵ所ほどが広範囲に点在する。
吉備というと一般的には現在の岡山県を指すが、紀伊の国にもかつて吉備の郷が存在した。紀伊徳川家が三十年余をかけて編纂し、江戸時代後期の天保十年(一八三九)に完成させた藩の領内地誌『紀伊續風土記』(一九五巻)の巻之十九に、「名方濱ノ宮舊跡・藺引森(いびきのもり)」の記事がある。吉備とは、この地の大名(おおな)と謂われた処で、後世この名は廃れ名高の藺引ノ森と称されるようになったと謂う。天照大神は此の地に四年留り、後に“大和國三輪の御室カ嶺に遷らせ給ひけれと、其御跡に猶祠を建て御神を祀り奉りしに、”(倭国の弥和乃御室嶺(みわのみむろのみね)にお遷りになられるが、その御跡に祠を建て御神をお祀りするのだが、)しかし、この場所は海浜で津波の恐れがあり、いつの頃か祀られていた社はほど近い丘の上の日方浦に遷座し、村の産土神となった、とある。
おなじ頃の文化八年(一八一一)から嘉永四年(一八五一)にかけて刊行された『紀伊国名所図会』は、紀伊續風土記とともに紀州を識る代表的文献とされる。寺社や旧跡、名勝地や地名を多数の挿絵入りで編纂した地誌だ。
この書の当国造家旧記に、崇神天皇五十四年に天照大神が“吉備名方濱宮に遷座し給う”とあり、吉備とは山陽道の三備の地ではなくこの地の大名(おおな)で、大名から遷座した地は藺引と言い、其処を古くは浜宮とも称したという。倭姫命世記は吉備を山陽道の方にしているが、“もとよりかの「倭姫世紀」は、後人の偽作せる書なれば、拠りどころとするに足らず”などとこき下ろしている。更に、国造家旧記には吉備とのみで國の字が無く、“「倭姫世紀」に國の字あるは、この地の大名なりし吉備を、三備の吉備國にまぎらわして記せるならん。”さらに、大和へ遷るにも備中よりはこの地の方が便利だ、といった都合の良い解釈を加えている。江戸後期の国学者で実証的研究者の伴信友も、名方浜宮の紀伊説を考証している。
その大名、後の藺引ノ森とは、現在の海南駅の東方付近とされる。續風土記には、天照大神がこの地で奉斎される前に鎮座していた奈久佐浜宮から二里ほどの処とある。現在は密集した住宅地のなかに、明治四十年に建立された小さな「大神宮遺跡」の石碑が佇んでいた。民家の入口に沿った数坪も無い僅かな土地に、小祠と、織田信長の紀州攻めでこの地で二百名の戦死者が出たことを記す井松原合戦の説明板があった。近隣の住人に尋ねても分からず、幾度も訊いてやっと所在を捜し当てた。その狭さと環境は意外だった。
そして名高の藺引ノ森と称された処より遷祀した社は、現在の海南市日方にある①伊勢部柿本神社となった。天照大神を主祭神に、素盞嗚尊、熊野久須毘命、市杵嶋姫命を配祀する。神社には、江戸時代の千石船の模型や絵馬のほか船名を記した石燈籠などが奉納されており、県の重要文化財に指定されている。数年前には獅子舞の奉納なども復活させている。
おなじく和歌山で名方浜宮の比定地とされるもう一つの場所は、有田郡吉備町長田の②国主神社の跡地である。国主神社は有田川を挟んで対岸にある田殿丹生神社(たどのにゅうじんじゃ)に合祀された。往時を偲び、その跡地に地元の崇敬者が鳥居と小祠を建立した。境内地の一角には「吉備名方濱宮跡」の碑があった。
田殿丹生神社はピラッミド型の白山を背景にしており、その中腹には磐座が屹立している。社殿の創建は応神天皇の頃で、洪水により平安時代に現在地へ遷座したとされる。狩猟と漁獲が生活手段であった頃、天照大神が開拓と農事を伝えたとされるが、この地での祭祀は、古く縄文期から行なわれていたと思える。祭神は丹生都比売神とその御子神の大名草比古命を祀る。丹生都比売神は水銀採掘の神で、記紀では抹殺されていると以前述べた。田殿丹生神社と祭神には非常に興味を惹かれるが、紙面の都合もありまたの機会にゆずる。
さて、名方浜宮の最も有力な比定地とされるのが、豊鍬入姫命の創始として社歴二千年を謳い、備前岡山の氏神と崇尊された式内社③伊勢神社である。天照皇大神と豐受大神を祀り「伊勢の宮」とも謂われ、岡山市賞田となった旧中田村に鎮座していた。現在の岡山市番町の地に遷座して備前藩の祭事一切をこの伊勢の宮の神官が執行したという。宝永五年(一七〇八)と翌六年に続けて社殿が火災に遭いその後再建された。神殿は当時のままのようだが拝殿は真新しい。市街地にあることで境内地は駐車場経営に利用されていた。
次の比定地は穴門山神社二社である。この神社に就いても不明な点が多い。延喜式に「備中國十八座・下道郡(しもつみちのこほり)五座」にその名が見える。それと目されるのが岡山県高梁市川上町高山市の④穴門山神社である。岡山県と広島県境の近くで、附近には人家もない奥深い山中に鎮座する。城壁とも見える石垣の上の神社は装飾を施した古い権現造りで、天照大神、倉稲魂大神(豊受大神)、足仲彦命(日本武尊の第二皇子)、穴門武姫命(吉備武彦の娘で日本武尊の妃)の四柱を祀り、赤浜宮とも呼称する。神社までの道は細く、辿り着くのに注意を要する。社殿左側に神窟とされる鍾乳洞がある。洞窟中は暗く蝙蝠が生息しているが、特別に見せて頂いた。樹齢七百年を超える大木始め、境内の鬱蒼とした樹木の種類の多さは見事だ。
もう一社の⑤穴門山神社は、創建不詳の古社で、倉敷市真備町妹の高山の山頂近くに鎮座する。社殿の背後には古代祭祀跡なのか、樹々の中に磐座とも思える巨岩が点在する。室町から安土桃山時代にかけての戦乱で、先の川上郡高山村に当社の行在所を設けて避難したという。再建は二百年後の寛保年間である。その際に裏に蜻蛉を刻した径三寸の六角形の神鏡が出土した。こちらも赤浜宮を称し、此処を延喜式内社とする説もある。主祭神には穴戸武姫命を祀る。
(奈良 泰秀 H19年8月)