『倭姫命世記』に拠れば、豊鍬入姫命は、丹波の吉佐宮で天照大神を四年に亘って祀った。そして、この地から倭(やまと)の国に奉斎すべき処を求められ、再び倭の地に遷る。世記に
「四十三年丙寅(ひのえとら)、倭の伊豆加志本宮(いつかしのもとのみや)に遷りたまひ、八年斎き奉る。」とある。豊鍬入姫命は、今度は天照大神を倭の伊豆加志本宮で八年間奉祀するのである。伊豆(いつ)は厳(いつ)で、加志は神霊が宿る神木とされる樫の木の意であり、“厳橿(いつかし)”である。世記のこの伊豆加志本宮の記述は、『日本書紀』の記事、十一代・垂仁天皇二十五年三月の条、一書(一(ある)は云(い)はく) から流用している。書紀に謂う。
「天皇(すめらみこと)、倭姫命を以(も)て御杖(みつゑ)として天照大神に貢(たて)奉(まつ)りたまふ。是(ここ)を以(も)て倭姫命、天照大神を磯城(しき)の嚴橿(いつかし)の本(もと)に鎮め坐(ま)せて祠(いは)ひまつりたまふ。」(天皇は、倭姫命を御杖代として天照大神に差し上げられた。それで倭姫命は、天照大神を磯城の神木・樫の木の本にご鎮座させて祀った。)
書紀にある垂仁天皇の皇女・倭姫命の記事を、十代の崇神天皇の時代に遡らせ、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命と置き換えて書かれたものだ。この伊豆加志本宮とは、書紀にも『皇太神宮儀式帳』にも見えず、世記のみに現れる。そこは万葉集にも登場する名高い“陰口(こもりく)の泊瀬山”で、現在の桜井市初瀬が比定地としてされている。それと、江戸後期の実証的研究者といわれた伴信友や、伊勢外宮の神職で、同じく幕末の国学者・御巫(みかんなぎ)清直ように、伊豆加志本宮は笠縫邑と同所とする説もある。
余談だが、御巫清直大人の子孫となる御巫清勇先生は、卜占によって社家を離れ、教鞭を執られていた。私は國學院高校時代から清勇先生に古文を教えて頂いた。祝詞調で読まれる平家物語は、まるで平安絵巻をみる思いであった。以前、小欄で、大祓詞を宣読したのは卜部氏で、中臣氏は太祝詞事のみを奏したとする御巫先生のお説には、首をひねるしかない、と書いた。いま思えば、祝詞学でもお世話になった清勇先生に、“大祓詞・卜部氏宣読説”のような神宮起源の独自のご見解を教えて頂いていたならば、私共の元伊勢検証も違った見方で始めたかも知れない。
さて、このように伊豆加志本宮に就いては初瀬説と笠縫説の二説がある。比定地は幾つか挙げられているが、神社本庁の教学にいる後輩の資料では、これを“未詳”としている。詳しいことは省くが、私共は従来から言われてきた初瀬説を支持し、比定地とする処は次の三ヵ所である。
(三)伊豆加志本宮(いつかしのもとのみや)(世記のみに記述)
① 真言宗豊山派 長谷寺(葛城賀茂氏の氏寺) 奈良県桜井市初瀬
② 與喜天満神社 桜井市初瀬字与喜山
③ 長谷山口神社 桜井市初瀬字手力雄
十一面観音を本尊とする①長谷寺は、初瀬、泊瀬とも言われ、起源は不詳である。しかし、創始は飛鳥時代の朱鳥元年(六八六)まで遡る。平安末期には藤原氏が建立した興福寺の末寺となり、必然的に春日大社とも結び付く。おなじ頃、長谷寺は伊勢神宮の神宮寺ともされ、そのため春日大明神、天照大御神の降臨伝承が生まれた。寺の東方には、山中に磐座が幾つか点在する與喜山ともいう天神山がある。ここに天照大神が降臨したという。古来、長谷寺の僧一同が毎朝この山に向かい礼拝する不思議な“與喜山礼(よきさんらい)”が行なわれている。境内の花々の景色は素晴らしい。とくに四月中旬から五月初めの艶やかな牡丹は有名だ。百五十種、約七千株とか。
また、旧郷社②與喜天満神社は、長谷寺の参道に沿った初瀬川の対岸にある小高い与喜山の急な坂道を登った中腹に鎮座する。長谷寺霊験記に伝記がある。この地を領有して瀧倉権現、瀧倉明神とも称された地主神が、化身して訪れた天満天神に此処を譲り委ね、自らは瀧倉に隠遁する。天神は雷神となり降臨し、以後、與喜大明神となり、輿喜山も天神山となった。與喜天満神社の摂社に伊弉册命、伊弉諾命、速玉命を祀る瀧倉神社がある。ここの権現桜は夙(つと)に有名だ。
③長谷山口神社は、同じく与喜山西南の尾根の端に位置する。長谷寺の参道から少し逸れた路地から初瀬川に架かる朱塗りの橋を渡る。鳥居が見え、長い石段を登ると神社の境内に到る。祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)と天手力雄神(あめのてじからおかみ)。明治末期には豊受姫命を合祀した。天手力雄神は、天照大神が八年間この地に留まっていたときの随神であったという。鳥居の左側に、元伊勢「磯城伊豆加志(厳橿)本宮伝承地域」の石碑が立っている。
そして、更に世記が伝える。倭の伊豆加志本宮で天照大神を八年間奉祀した豊鍬入姫命は、次に、木の国(紀伊)に遷られる。天照大神の何ゆえの倭から紀伊への遷幸であったのかは、理由は詳らかではない。
「五十一年甲戌(きのえいぬ)、木の国の奈久佐浜宮(なくさはまのみや)に遷りたまひ、三年を積(ふ)るの間、斎き奉る。」
豊鍬入姫命は、崇神天皇と“紀伊國の荒河戸畔(あらかはとべ)の女(むすめ)、遠津年魚眼眼妙媛(とほつあゆめまくはしひめ)”(『紀』)との間に生まれた。国造で紀伊の豪族の娘であった母君の故郷に遷られたことになる。此処で三年間、天照大神を奉斎するのである。これもまた、他の文献には見えない世記のみの記述である。その奈久佐浜宮の比定地とする処は以下の三ヵ所である。
(四)奈久佐濱宮(世記のみに記述)
① 日前國懸(ひのくまくにかかす)神宮 和歌山県和歌山市秋月
② 濱宮神社 和歌山県和歌山市毛見
③ 三船神社 和歌山県紀ノ川市桃山町神田
①日前國懸神宮は、同一境内に日前神宮と國懸神宮の二社が鎮座する。日前は日像鏡(ひがたのかがみ)、國懸は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を神体として奉斎し、その由緒は神話の時代に遡る。素戔鳴尊(記=須佐之男命)の乱暴を恐れて天石窟(あめのいはや)にこもった天照大神を再び招き迎えるため、知恵者の思兼神がさまざまな策を巡らせて実行する神話の場面は最も有名である。書紀の一書(あるふみ)には、この時、石凝姥(いしこりどめ)(記=伊斯許理度賣命(いしこりどめみこと))に「天香山(あめのかぐやま)の金(かね)を採(と)りて、日矛(ひほこ)を作らしむ」とある。加えて古語拾遺には次のような記事がある。「是(ここ)に思兼神の議(はかりこと)に従ひて、石凝姥神をして日(ひ)の像(みかた)の鏡を鋳(い)しむ。初度(はじめ)に鋳たる(是(これ)、紀伊國(きのくに)の日前(ひのくま)の神なり)は、少(いささか)かに意(こころ)に合はず。次度(つぎ)に鋳たる(是、伊勢の大神なり)は、其の状(かたち)美麗(うるは)し。」(そこで思兼神の提案に従って石凝姥神に太陽を象徴した鏡を鋳造させた。初めに鋳造した〔是は、紀伊国の日前の神である〕鏡は、いささか意に沿わなかった。次に鋳造した〔是は、伊勢の大神である〕鏡は、その形状が美麗であった)。つまり石凝姥が最初に鋳造した鏡が日前・國懸両宮に祀られているのである。それは伊勢の八咫鏡と同等のものとされている。
尚、紀伊國一之宮で旧官幣大社の日前國懸神宮は、包括宗教法人の神社本庁所属ではなく、単立の宗教法人として活動している。
(奈良 泰秀 H19年7月)