神明神社鎮座跡の碑

各地に点在する元伊勢伝承が残る比定地の神社を訪ねて三年目になった。時おり、出版社の社長から筆の進み具合を聞かれる。まだ確たる返答が出来ないでいる。もとより他の仕事のあい間をぬって出掛けるので思うように進まない。それに各地の比定地を廻り、その土地の空気に触れることで、納得するまで調べてみたいというテーマへの思い入れも強くなる一方だ。現在、他の題材で執筆している本が二冊あるが、年頭にあたり、元伊勢伝承地を廻ることで教えられた、日本人の大らかな信仰心の深さと敬虔な祈りを年内には世に知らせたいと念じた次第―。

元伊勢については、以前、小欄で取り上げた。当初、有力な比定地は約六十ヵ所と見た。その後、資料を蒐集していくうちに九十ヵ所となりついに百ヵ所を超えた。さらに数が増えるのを押さえ消却法で百ヵ所に絞り、現在はこの百ヵ所を順次調べて廻っている。

かつて天照大神の御霊代を奉じた倭姫命が通過された場所は、どこでも元伊勢になり得ると伝えた。元伊勢に関心のある神仏画家の方が出された本には、簡短にだが約百五十社の神社が記載されている。周囲にこの数字を云うと一様に驚く。勿論、元伊勢の事跡を伝えるために従来のように限定された有力比定地のみを捉え、こと足りるとすることもできる。だが、それだけでは草の根を分けて知るような、その土地の人々の信仰心を知ることはできない。土着化した伝承が新たな伝承や説話を生み、それがまた素朴な信仰の対象となっている。各地でそのような信仰はいまだに息づいている。

比定地とされる場所を廻るのに車での移動は欠かせない。市街地だけではなく山中や草深い鄙びた土地の神社もある。車の運転は嫌いではないが、助手を務める運転好きなスタッフにほぼお願いしている。

『倭姫命世紀』にある淡海国 (近江=滋賀県)の「甲可(かふか)の日雲宮(ひくものみや)」と「坂田宮(さかたのみや)」の二社の比定地とされる神社が十四、五社ある。昨年の秋、そのうちの何社かを尋ねる車中でのこと。スタッフが作成した資料や本のコピーなどに混じってインターネットから取り出した一通の資料に気づいた。まだ眼を通していなかった。A4紙で十枚ほど。そこには、福井県最東端で、岐阜県との県境にある九頭竜ダム建設のため廃村となった集落の神社跡に、元伊勢伝承を伝える碑があると記されている。どうやら倭姫命が日雲、坂田宮の後に遷幸されたとする美濃国の「伊久良河宮(いくらかはのみや)」の比定地のようだ。このような山間部に元伊勢伝承が残されているとは思いもよらなかった。急に興味を覚え、行き先の予定を一部変更してそこを尋ねることにした。

北陸自動車道の福井から一般道の国道158号線で大野市のエリア内にある山間部にはいった。昼食をとった九頭竜温泉のホテルでダム建設から廃村に到る経過を聞いた。ナビを備えていることで碑のある神社跡はすぐ判るだろうと思ったが、大きな間違いだった。

九頭竜ダムは昭和三十七年(一九六二)に着工し、六年後の昭和四十三年に竣工している。ダム建設にはさまざまな形式があるが、ロックフィルダムという土砂や岩石を積み上げて造る形式のもの。日本三位の規模のダムとか。このダムのある和泉村は昭和の大合併で昭和三十一年に上穴馬村と下穴馬村が統合して新村名となった。ダム建設で旧上穴馬村は湖底に沈み、下穴馬村は奥地残存地域の指定を受け孤立集落となり、全戸が移住を余儀なくされた。そして廃村に至る。周辺の十四集落の六百二十戸に住む二千五百人が離村したという。

穴馬の集落には伊勢という地名があった。上伊勢、中伊勢、下伊勢とあり、九頭竜川源流の伊勢川上流附近にあった。そこには神明神社、またの名を伊勢皇太神宮ともいう神社があり、独自の元伊勢伝承があった。

この穴馬の地名は古文書にも記され、かつては美濃と越前との要衝の地であった。資料では、穴馬の穴とは鉱山を掘った穴という意味で、最後に閉山したのは昭和六十年代になってからだそうだ。古来この土地からは染料や防腐剤や薬用として使用された水銀(丹)が産出した。壬申の乱に勝利した天武天皇が、寺院仏閣の装飾用に用いる鍍金用の水銀鉱山の開発を進めたことと、天照大神を奉じた倭姫命の遷幸とは関係があるのではないか、という。水銀を製造するには、辰砂という鉱物を粉砕して過熱し、そこから発生するガスを急冷させて得る。当時多くの帰化人が地方へ進出していたが、朝廷の指令の許にこの技術を持った秦氏系が開発を行っていた。水銀の原料となる辰砂の鉱脈を確保するために、天武政権は各地で日(火)の神・天照大神をかざし、土着の勢力との争いを繰り返していた。そして元伊勢伝承とは、勝利していった戦跡の場所を表す物語であった、という。

九頭竜ダムの「夢の掛け橋」

さて、我われはホテルで聞いた道をたどり、瀬戸大橋のモデルといわれる“夢のかけ橋”を渡り、国道158号線からみて九頭竜湖の反対側の道に出た。舗装から一転してダートの山道は細くなり、やがて山に遮られ湖面も見えなくなった。人家は無く、時おり草陰に見える廃屋は崩れかけて四十数年の年月を物語っていた。スピードを落としながら往けども往けども目標となるものが無い。悪路のうえ行き交う車もない山中の陽の蔭りは早く、ついに断念して引き返す破目となった。

そして一ヵ月後、前回とは違う東海北陸道からのコースをとり、九頭竜ダムに近い岐阜県側の郡上八幡に宿泊し、朝早く起きて出発した。ダム湖の濃い緑色の静かな湖面は朝陽に輝き、紅葉を始めた山の景色は素晴らしい。

一度、九頭竜湖を過ぎて和泉村まで行き、地元で長く営業しているとおぼしき酒屋で神社跡を聞きただす。ここからは距離もありよく分からないという困惑顔の主人は、教育委員を務めた方を紹介してくれた。そこへ行き、神社を尋ねて来た趣旨を話し、打ち解けたところで現地の大きな地図を広げてもらった。

だが、現地付近に着き同じ道を幾度も行き来をし、降りて探すが行きつけない。偶然通りかかった現地ナンバーの車が協力してくれ、やっとの思いで小高い丘の碑を見つけた。

伊勢神明神社旧鎮座跡。裏に碑文があった。「伝説によれば、当神社は天照皇太神宮と称し、その起源は遠く、伊勢神宮仮鎮座の跡なりとして尊崇され、境内には周囲十三米、高さ五十三米におよぶ巨大なる御祓杉を中心に老杉鬱蒼と繁る森厳なる神域なりしも、九頭竜川電源開発により全戸移住して無人の境となる。祭神は九頭竜川沿岸の聖地に建立する新神殿に水没地の各神社祭神と合祀することになり、永く遺跡を表示するため伊勢氏子の総意をもって碑壱基建設し、茲に銘記す。 昭和四十一年七月十六日 伊勢区」

(奈良 泰秀  H19年2月)