石上神宮の祭神にまつわる神話は有名だ。主祭神は、韴霊(ふつのみたま)(平国之剣(くにむけのつるぎ))という神劔に鎮まられる霊威がご正体の布都御魂大神(ふつみたまのおほかみ)。布都のフツとは、剣が勢いよくフツッと光って物を断ち切るさまを顕し、刀剣の威力を象徴するという神なのである。この神宿る剣は、かつて神代の時代に出雲の國譲りの交渉に赴いた建御雷神が携さえ、国土平定を成就させて大功を挙げた。
時が過ぎ、神武天皇が東征の折、熊野で荒ぶる神が化身した大きな熊が現れた。その毒気で正気を失い、皇軍の兵士もにわかに病み疲れ倒れてしまった。そのとき熊野に住む高倉下(たかくらじ)の許に霊夢とともに出現したのが、建御雷神が高天原から落雷のごとく倉を突き破って下し降ろした一振りの太刀。霊威の籠った韴霊が再び現れ、これを高倉下が献上すると、神武天皇も兵士もたちまち回復して正気を取り戻した。佐士布都神(さじふつのかみ)とも甕布都神(みかふつのかみ)(『記』)ともいわれるこの神剣は、荒ぶる神をまたたく間に斬り仆してしまう。こうして熊野を平定した神武天皇は、その後も戦いを続け各地の国津神を従わせ、最後に物部氏の祖神となる饒速日命(『記』・邇芸速日命)をも帰順させて東征の大業を終結させる。
神日本磐余彦命(かむやまといはれひこのみこと)といわれていた神武天皇が四十五歳になり、九州日向の国で兄や子供達と美地を求めての東行を語り合っていたころ、この饒速日命は、すでに東の大和の国に降っていて開拓に努めていた。土地の豪族・長髓彦(ながすねひこ)(『記』・登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ))の妹・三炊屋媛(みかしきやひめ)(『記』・登美夜毘売(とみやびめ))を娶り、子供の可美眞手命(うましまでのみこと)(『記』・宇麻志麻遅命(うましまぢのみこと))が生まれていた。のちに物部氏の遠祖となる宇麻志麻遅命(うましまぢのみこと)は、神武天皇の大和への入国に際し、忠節を尽くして臣従し、これを迎えた。神武天皇は畝傍山の橿原に宮殿を建立し、初代天皇として即位する。辛酉年(かのととりのとし)の正月朔日(ついたち)、太陽暦では現在の二月十一日だが、我われはこの日を「建国の日」として休日の恩恵にあずかっている。
そして神武天皇は、宇麻志麻遅命に韴霊・布都御魂大神の功績を称えて宮中での奉祀を命ずる。そのとき、父神・饒速日命が高天原の天津神から授かり、宇麻志麻遅命が継承していた天璽(あまつしるし)十種瑞宝(とくさのみづのたから)を献り、これを神剣ともに奉斎する。即位の年の十一月、宇麻志麻遅命は宮殿において天皇と皇后のための長寿を祈り、この十種瑞宝をもって神業を執り行った。これがいまに伝えられる物部の鎮魂祭の起源とされる。のちに石上神宮の祭神の一柱となる布留御魂大神(ふるのみたまのおほかみ)は、この鎮魂に用いる天璽十種瑞宝に鎮まり、その起死回生の霊威という。
これらは永らく宮中で祀られていたが、さらに時が経ち、第十代・崇神天皇七年の御世となった。饒速日命から六世の孫となる伊香色雄命(いかしきおのみこと)は勅命を受け、韴霊と十種瑞宝を宮中より石上布留の高庭に遷し、石上大神と称えこれを祀った。ここで石上神宮の創始を見る。韴霊と十種瑞宝はそれぞれ布都御魂大神と布留御魂大神となり、祭神として奉祀されるようになった。鎮魂の行法もまた石上神宮に伝襲されていく。
前回、吉備(岡山)の石上布都魂神社には素盞鳴命が八岐大蛇を退治した十握劒(とつかのつるぎ)(虵韓鋤(をろちのからさひ))が祀られていたが、これが石上神宮に奉遷されたことに触れた。この剣に宿られる霊威を称えて石上神宮では布都斯魂大神(ふるしみたまのおほかみ)となり、祭神の一柱となった。
以前、小欄で元伊勢伝承に就いて述べた。同じく崇神天皇の六年、世は乱れ徳政をもってしても治め難く、神祇への請願が行われる。それまで宮中には天照大神と倭大國魂神(やまとのおほくにたまのかみ)の二柱が祀られていたが、“共に住みたまふに安からず”と、神勅に拠っての歴代天皇との同床同殿の奉斎形態は改められ、皇居と神居は別となる。天照大神は皇居を離れ、大和の笠縫邑(かさぬひのむら)で祀られることになった。崇神天皇の治世となり、それまで宮中で奉斎されていた後の石上神宮の祭神が、天照大神と同じように皇居の外で祀られるようになったことは共通している。戦後の歴史学界で、二代の綏靖天皇から九代開化天皇までの八代の天皇の実在が疑問視され欠史八代といわれてきたが、確かにこの崇神天皇の時代から活動も活発になり説話も多く記述されるようになっている。
さて、宇麻志麻遅命が十種の神宝を用いて行った鎮魂法はその後、次第に祭儀として整備されていく。慶雲四年(七〇七)に二十五歳の若さで崩御した文武天皇が発布した大宝令には、宮中祭祀の鎮魂祭として儀礼化され、制度のなかに取り入れられている。文武天皇の祖父・天武天皇の治世に成立した鎮魂祭と大嘗祭・新嘗祭は宮中祭祀の重儀として扱われ、鎮魂祭の執行日は仲冬(旧暦十一月)の寅の日に規定された。大嘗祭と新嘗祭の執行日は同じく仲冬の卯の日で寅の日の翌日。中国の陰陽を取り入れた暦で利用されていた当時、仲冬とは冬至をなかに入れた暦がこれから新しく始まる子(ね)の月で、中国では冬至を新年の開始の時としていた。それまでの陰である亥の月(旧暦十月)から一転して陽気の月に変るのが子の月だ。そして寅・卯の日とも陽の始まる日で、天運が循環し、これから万物が陽の気を受けて躍動を始める日が鎮魂祭・大嘗・新嘗祭の執行日に選ばれたことになる。
このように鎮魂祭の祭日を捉えると、太陽の陽気と天皇の生命力が衰弱の極に達する時期ということが解る。冬至を境界として新たな季節を迎え、太陽と天皇の生命力の蘇生を促がすのが鎮魂祭の目的と見る識者は多い。
鎮魂祭の初見は前出の大宝神祇令だが、神典の記・紀に“鎮め”はあっても鎮魂という文字は見えてこない。鎮魂についてよく引き合いに出されるのが大宝職員令にある「鎮は、安ずるなり。人の陽気を魂といふ。魂は運なり。言ふこころは遊離の運魂を招いて、身体の中府に鎮まらしむ。故に鎮魂といふなり」だ。これをもって鎮魂の意味するところを、「一旦出離の魂を本体に復帰せしめ、また内在する魂の遊離を防ぐ“魂鎮(たましず)め”と、静止または沈滞の状態にある魂を振作活動せしめ、また魂を呼び迎え身体に来触させる“魂振り”の二種がある。この両者を統一した儀式が鎮魂の祭 ―」(神道辞典)とするのが一般的だ。
宇麻志麻遅命が十種の神宝を用いた鎮魂行法の、さらにその起源を辿れば神代に到る。天照大神が天の窟戸に隠れられたとき、天鈿女命(あめのうづめのみこと)が覆槽(うけふね)の上で俳優(わざをぎ)をして鉾を以って槽を衝き鳴らし、踏み鳴らして霊魂を誘発する呪術は鎮魂の舞踊とされる。俳優する天鈿女命は、太陽の霊格を持つ天照大神の魂の活力と生命力を復活させて呼び戻し、それを強化して身体に憑けるという鎮魂儀礼だという見方もまた出来る。
(奈良 泰秀 H18年12月)