全国の神社数は俗に八万社といわれている。これは終戦時に神祇院が廃止されて国家管理を離れ、昭和二十一年に民間の一宗教法人として発足した神社本庁の傘下の神社数をいう。
明治三十九年の政府の調査で、十九万三千余社の神社が存在した。それが、政府が統合管理のため神社の合併合祀を勧奨したことで、明治末期には約十一万社となった。終戦の昭和二十年の神社統計数も、ほぼ同じ十万九千余社である。終戦の混乱のさなか、発足した当時の神社本庁に属した神社は、約八万七千社であった。その後、戦後の町村合併などでさらに神社の合併が進められ、神社本庁発足時より傘下神社の約一万社が減少した。
だが、神社の数はこれだけではない。神社本庁に所属せず単立法人となった神社、他に設立した包括法人に所属した神社、教派系の神社、法人格を持たない神社・祠社などもある。これらを合わせれば、神社の数は十三万とも十四万社ともいわれている。このように戦前も現在も神社の実数は不詳なのだ。
「日本人のあるところ必ず神社あり」と海外神社史をまとめた神道家の言葉は前に述べたが、かつて戦前に、海外に建立された神社の数は千六百社を超えるといわれた。だが、国家の管理下にあっても、国内の状況と同様に正確な数は捕捉されていない。記録されない居留日本人が独自に建立した民間の神社・祠社や、海外に進出した企業が建てた神社など、公的資料に記載されない事例も多々あった。また、海外の地域によって「神社」の規定が統一されておらず、曖昧で、一方が神社と公式に認められていても、他方では認められていなかったこともあったようだ。
終戦時まで社格として官幣社・国幣社が存在した。その最高位の社格が官幣大社である。
この官幣大社の社格を与えられた海外神社が五社ある。朝鮮神宮(朝鮮京城府)、台湾神宮(台湾台北市)、樺太神社(樺太豊原市)、関東神宮(満州関東州旅順市)、南洋神社(パラオ島)の五社である。このほかに、昭和十四年に朝鮮百済の旧都・扶余に神都構想と神社創建が発表されたが、終戦まで都市計画も神社造営も完成せず、官幣大社の社格を与えられたままの、祭神未鎮座の扶余神宮もあった。
戦前にはタイやシンガポール、インドネシア、フィリピンなどにも神社が奉斎されていたが、僅かだが江戸時代から存在した海外神社もあった。朝鮮半島には、江戸中期に対馬藩主が創祠したとされる龍頭山神社ほか、貿易に関わった日本人居留民が建てた神社が幾つかあった。また我が国固有の領土だった北方領土には、当然だが神社が存在した。蝦夷地開拓に尽力した高田屋嘉兵衛が、択捉島や国後島に神社を何社か創祀している。余談だが、国後島には源義経を祀った神社もあった。
義経といえば台湾には、中国人と日本人の混血で、台湾を白人から解放した実在の鄭成功を祀った廟に、県社の社格を与え、台湾では初めての神社となった珍しい例がある。鄭成功は没後半世紀を経て、近松門左衛門作の、人形浄瑠璃から後に歌舞伎でも演じられた「国姓爺合戦」のモデルとなった人物だ。当時、三年越し十七ヵ月にわたって史上最長のロングランとなった。三百年近く経た現在も映画化などもされている。清との戦いに敗れた鄭成功は、大陸反攻の拠点を台湾に求め、当時台湾を支配していたオランダ軍を攻略する。これを降伏させ、苛酷な支配下から全島を解放し、さらに南方への軍事行動と開拓を進めようとするが、不幸にも途中で病没してしまう。勃興する清王朝に抗し、衰退していく明朝に一途なまでに忠誠を尽くし、最後まで明朝復興の望みを託しながらも三十九歳の若さで世を去った生きざまが、日本人の判官贔屓の気質に受けたということだろうか。
この鄭成功を偲び、祀ったのが旧台南市の開山王廟または開台聖廟といわれる廟である。
日清戦争の勝利で台湾は下関条約により清国から割譲され、台湾総督府を設置して明治二十八年五月から統治を始めるが、二年も経たずにこの開山王廟は改築され、鄭成功を祭神とした開山神社と改称し、前述のように県社に列格された。まだ海外の神社制度が確立する以前に、このような社格を得たことは異例のことだ。開山神社は日本統治五十年の後、再び改変されて明延平郡王祠となり、現在は毎年春に祭典が催され、政府高官が参列する国家行事となっているそうだ。
台湾には公的記録のある神社六十八社と、ほかに行政側から関与されない居留日本人が建てた祠社が二百社を超えていた。開山神社や護国神社、台湾での戦死者や殉職者を祀った建功神社などは別として、台湾の神社の多くは、祭神に北白川宮能久親王を奉祀している。海外神社で唯一官幣中社の社格の台南神社を始め、六十八社のうち六十社が能久親王を奉祀している。朝鮮半島や中国大陸、南洋諸島などの神社の多くは天照大神や明治天皇を祀るが、台湾では能久親王を祀っている。
この祭神となる皇族の能久親王は江戸・寛永寺の門主職を相続して輪王寺宮を称し、維新前は幕府側に加担。戊辰戦争では奥羽越の列藩同盟々主に擁立されたことで後に謹慎処分となる。これが解けるや還俗して渡欧し、軍事を学び帰国後は皇族軍人となる。台湾の抗日武力勢力の平定に向かうが、病魔に冒され、明治二十八年十月、かの地で薨去するという数奇な人生を歩まれた。御歳四十九歳。出征に出て病で薨じた日本武尊になぞられ、台湾鎮護の神として奉斎する気運が昂まり、明治三十四年に台湾総鎮守・台湾神社の創建に、開拓三神の大国魂命・大己貴命・少彦名命とともに祭神として祀られた。台湾神社の創建は、当初よりこの能久親王を祀るために計画されたといってよい。台湾神社は十六万坪と海外神社でも最も広大な神苑を有し、さらに昭和の造営計画で五十八万坪に拡大された。
前回述べたが、台湾護国神社が敷地を継承され英霊の御霊を祀る国民革命忠烈祠と改変されたように、台湾各地の神社の多くは取壊され又は改造されて忠烈祠と姿を変えていった。忠烈祠には将校の位牌と兵士の供養箱に納められた名簿が祀られ、現在に到っている。
台湾神社は敗色濃い昭和十九年に天照大神を増祀して台湾神宮と改称したが、戦後、忠烈祠に変わることもなく、蒋介石夫人の宋美齢の勧めで広大な敷地を利用して国賓を招待する迎賓館としてのホテル・圓山飯店となった。
この圓山飯店のなかのデザインには、二十万以上の龍の彫刻が随所に施されているそうだが、現地の人と訪れた折、建物の中の別棟への通路には、鋼製の龍の口から水が流れ出ていた。それが台湾神宮の手水舎の跡だとか。真偽のほどは判らない。
(奈良 泰秀 H18年11月)