この春、沖縄県護国神社の宮司代務者に就任された憂国の士にして硬骨漢の畏友・伊藤陽夫氏は、私がもっとも尊敬する神職のおひとりである。
神職を養成する学部もある國學院大學と皇學館大学の卒業生を、それぞれ院友、館友という。伊藤氏は神戸商船大を卒業後、皇學館と國學院に学び、館友と院友になった。神戸・長田神社、京都・八坂神社、東京・明治神宮の祭儀部長などを歴任された後、沖縄に赴かれた。敬神の念篤く、日頃熱心に説かれていた戦没者の慰霊のための渡沖である。電話でいまだに戦跡に眠る遺骨について一時間以上も話しこむこともある。
護國神社は、その土地の出身者で戦争などで国のために殉じた人たちの御霊(みたま)を祀る神社である。その前身は、明治維新前後に国事に奔走して命を落とした人々を祀るため各地につくられた「招魂社」である。創建には各藩も関与し、当初は全国に百余社あったようだ。
各地方の招魂社は、昭和十四(一九三九)年、内務省令で一斉に護國神社と改称された。一府県に一社が原則だが、北海道や岐阜・広島・兵庫など、複数社が存在する県もある。神奈川県のように建設中に戦災で焼け、戦後、「戦没者慰霊堂」となった例もある。私の講座の受講生が宮司を務める神社のように、護國の名称を冠していないが、今次大戦で犠牲となった東南アジアの人々をも合わせて祀る、有志により戦後建立された単立法人の神社もある。
東京には護国神社はないが、靖國神社がある。靖國神社は、王政復古で成立した新政府と旧幕府軍との戊辰戦争で、官軍側の戦死者を祀った「東京招魂社」が起源である。明治元(一八六八)年に東征軍の総督・有栖川熾仁親王が江戸城に入城し、城内で東征軍側の戦死者の招魂祭を行い、翌二年に明治天皇の仰せで、現社地に東京招魂社の仮社殿が造営され創建にいたった。
全国の各地域出身者の英霊を祀る靖國神社が本社・本宮で、地方の護國神社が分社のように見られることがあるが、祭神が分祀されているわけではない。それぞれの護國神社はたとえ祭神が同じでも、独自に招魂をして、祭祀を執行している。ただ、靖國神社は単立の宗教法人であるのに対し、護國神社は少数の何社かを除き、宗教法人・神社本庁の傘下にある。靖國神社は神社本庁の干渉を受けないし、神社本庁の神職資格も必要としない。建前として、靖國神社と護国神社は同列で、上下の関係はないのである。靖國神社は、この夏、富田メモなるものも世に出て、最近とみに何かと喧しいのはご存知の通りだ。
小靖國とも称される沖縄護国神社の場合、日清戦争以後に国難に殉じた英霊を祀っていた招魂社が、昭和十五(一九四〇)年に指定護國神社となった。だが、終戦の年の昭和二十年四月に米軍の上陸作戦によって戦火を被り、社殿が焼失する。十四年後の昭和三十四年四月に仮社殿を建立し、春季大祭を斎行している。さらに六年半後の昭和四十年十月に本殿と拝殿が竣工し、現在にいたっている。
沖縄県では沖縄戦が終了したとされる六月二十三日を「慰霊の日」としている。沖縄県護國神社では、六月二十三日の沖縄戦戦没者総合慰霊祭をはじめ、春秋の例大祭、終戦記念日の八月十五日にみたま祭りなどを斎行している。沖縄県護國神社も靖國神社同様に神社本庁の傘下には入っておらず、単立の宗教法人である。つまりどこからも干渉や管理指導など受けることなく、独自に運営活動ができるということだ。
他の護國神社では祭神は軍人と軍務関係者にほぼ限られる。だが沖縄県護国神社では、奉斎される十八万柱近くの御霊のうちの十一万余柱が、郷土出身の軍人軍属と戦争の犠牲となった一般の住民や婦女子である。なかには戦闘に巻き込まれて遭難した児童なども含まれる。
国内戦で最も多くの民間人を巻き込んだ沖縄での戦争は凄惨を極めた。米軍の本格的な上陸作戦の前哨となる昭和十九年十月の空襲では、旧那覇市の九十%が焼失し焦土と化した。当時の沖縄の人口は約四十五万人程度だったようだが、戦争終結まで四人に一人が死亡したといわれている。一家が全滅したことや戸籍が焼失したことで、全面的な調査が行えず、正確な戦没者数は不詳とさていれる。一説にはまだ四千体が不明だというが、実数はもっと増えるとの見方もある。今も数多くの遺骨が、何処かで無念の想いで発見されることを待ち望み、寂しく眠っているのだ。
新年には沖縄県護国神社に詣でる人が二十二万人いると聞いた。千二百万人が住む東京都の中心にある靖國神社の初詣の参拝者は二十五万人といわれる。現在の沖縄県の人口は百三十六万人である。そうすると沖縄護国神社の二十二万人は実に多い。沖縄には広く浸透している祖先崇拝と、御嶽への独自の信仰がある。護国神社への初詣の人の多さは、亡くなった家族や親類縁者への追悼慰霊のためではあるまいか。
沖縄護国神社の正月には仮設のテントの中に百八十種ほどのお札やお守りが並ぶそうだ。一人で家族や親類のために何種類も購入していかれるという。順番を守り、長蛇の列や混雑に罵声を上げることもなく、金銭に一円の間違いも無いのには驚かされる、という。これは先の伊藤氏の話だ。
本土から沖縄に慰霊のため訪れるひとは多い。私も師の溝口似郎先生との行脚とは別に、何年か前に宗教関係者数名と戦没者慰霊と聖地巡拝のために沖縄を訪れた。最大の激戦地となり日本軍が壊滅した場所は、いまは沖縄戦跡国定公園となっている。園内には十八万余柱の遺骨が安置された国立沖縄戦没者墓苑を始め、平和祈念資料館や沖縄平和祈念堂が建ち、都道府県の自治体や遺族会が建立した慰霊碑も並んでいる。摩文仁の丘一帯は整備され、恒久平和を願う記念碑「平和の礎」には軍民国籍を問わず、沖縄戦で亡くなられた人たち、二十四万名近い名前が記されている。現在も毎年新たな遺骨が発見され、氏名が追加・刻銘されているという。
ひめゆり学徒隊の慰霊碑・ひめゆりの塔で、祈っていた溝口師の肩の辺りに写るはずのない帯状になった蓮の花が現れている写真がある。沖縄の慰霊では良くそのような現象があるようだ。私は、沖縄は内地とは違う地霊や先祖霊が働く土地だと思っている。御嶽信仰に日本の縄文に分け入る古神道の源泉をみる者は私だけではあるまい。いずれ興味ある沖縄の信仰について調べてみたい。
(奈良 泰秀 H18年10月)