先日、皇族や公家の系譜を研究している知人から電話を貰った際、怪異現象の話しを聞かされた。京浜地区でとびきり美人のママが料亭とスナックを経営しているが、その店での出来事。カラオケに合わせて客が歌おうとすると、何処からともなくしわがれた声が聞こえてきて伴奏に合わせて歌い出すそうな。曲に依って、ということだが、客があたりを見廻し驚いてマイクを置いてしまう程明瞭に聞こえるという。知っている唄を歌う霊が現れるというのも面白いが、時どきこのような現象の話しや相談を持ち込まれる。
常日ごろ、講座などでは霊的な現象に捉われたり過剰に興味を持たないようにと指導している。だが近頃は、興味を引くような心霊現象を扱ったテレビ番組もよく眼にする。そのようなテーマの最近の出版物では、五十一歳の時に北海道に山荘を建てたことで、それ以来アイヌの怨霊や狐霊の仕業による怪異な現象に悩まされ続けた作家の佐藤愛子氏が書いた『私の遺言』(新潮社)がある。この本は、二十数年に渡って悪霊と戦い、その間に三輪明宏氏や北澤八幡神社に奉職していた霊能者の江原啓之氏等や心霊研究家に助けられた経験を記して、二〇〇一年三月から翌年六月まで「新潮45」に連載されたもの。発売当初から評判となり版を重ねて来ている。
この本のなかで女性霊媒師が、“霊能者は単なる拝み屋であってはならず、拝み屋の域を出てアカデミックな心霊学を学び、学をもってその地位を築くべきだ。”といったことを言っている。まったく同感だが、とかくこのようなことは話題にのぼりやすい。
私の講座の受講生には、神社であれ新宗教であれ神事に向き合う奉職者の心構えは、神への奉仕精神涵養のための「行」、学問的研究の「学」の、行・学一致に徹することだと説いている。私は五年半も職に就かず自己満足的な“行”の月日を送った。その後に母校に戻り、何年間か神道について勉学に励んだ。そのことで確かに多少なりとも学問的な知識は得た。しかし「行」についての心構えや精神性などは、露ほども学べたとは思っていない。大学で「行」の心は学べない。
私の師となる先々代宮司の溝口似郎先生が帰幽されて既に十五年が経つ。先生も真の霊能者と呼ぶにふさわしい人だった。今でも良き師に出会えたものと思っている。「仏教とは仏の教え、神道とは神の道。道を究めるのは厳しいものだ」。「では、武道や芸の道とは…?」「それは、“礼に始まって礼に終る”と心得なさい」。といった平易なものの云いよう。真摯な神へ対する姿勢と独自の神観を師に教えられた。思えば、大学で学んだことより師の教えのほうが意義深いものがある。
師は常人に見えないことが見える、いわゆる霊視ができることで心霊現象の相談も多かった。崇敬会を通して頼まれる相談ごとや神事に、私も鞄持ちを兼ね祭員として何度となく同行した。一般の神社の神職とは異なった体験の思い出も数多い。請われて訪ねた旧家の土蔵の梁を見上げ、“あ、ここで首を吊った人がいる。”といったことを事もなげに言う。後で家人に聞けば確かにその通り。墓地の墓石のひび割れなどを見ては、“ほう、自殺された方が二人もはいっておられる。”といった師の言葉にも、当時は墓相など天から頭に無かったことで、聞く耳を持たなかったことが今となっては悔やまれる。時折り、師の『墓と霊室の神秘』(上下・二巻)をひも解いては読んでいる。「霊的な現象が見えるとか見えないことに拘ることはない。見えることでかえって判断を誤ることがある。見えないことで真剣に神に祈る心を持つ。その心を大切にしなさい」。とは師の言葉。霊視などに興味を持つ者にはこのことを絶えず言っている。
それと相談事で多いのは、飲食店の建て替えや料亭を取壊してマンションを建設する際などの、それまで祀っていた稲荷社の祠等の建造物・神棚・お札などの処分。現在もある。
私共は稲荷神の眷属の霊狐の遷座を、深夜十二時を過ぎてから執行する。日中、近くの神社から神職が来てお祓いをしたが、念のためかもう一度お願いしたい、といったことが幾度もある。師は祠の扉を開け、“ほう、二匹おる。尻尾が金色になっているな。”などと観察する。霊狐は信仰されることで霊格が上がっていき、それに伴い、尾から徐々に胴体から首にかけて金色に染まっていくという。
この霊狐を祠から遷座させる先だが、伏見稲荷でもなく豊川稲荷でもない。九州の福岡県と大分県の県境にある英彦山。師の神事を惰性で手伝っていたわけではない。だが迂闊なことに、なに故に霊狐を英彦山に送り還すのか、肝心なことを聞き漏らしてしまった。暫らくして自分なりの答えを見つけたが ―。
英彦山は標高千二百㍍。今も法螺の音が森林に響く出羽・熊野と並ぶ鎮西修験道の霊山。かつては山そのものを御神体として寺号を霊仙寺と称し、“嶺に三千人の仙人あり”と言われ、神仏混淆の信仰で来た。明治初年の神仏分離令で修験道廃止となり、現在の英彦山神宮に到っている。英彦山神宮の祭神は天照大神の御子・天之(あめの)忍(おし)穂耳(ほみみの)命(みこと)。日の神の子、「日子(ひこ)乃山(のやま)」が嵯峨天皇の御代に「彦山」となったとされる。英は美称。この神は、生命力に満ち秀でた稲穂を表す神として初めて現れる。
英彦山の開山には宇佐八幡宮と同じく渡来人の秦氏が関与している。秦氏は渡来した五世紀以降、稲荷神を農耕神として祀り、全国に拡めている。稲荷は伊奈利が転じたものだが、もともと「稲生」「稲成」(いねなり)で、稲作の稲に宿る精霊信仰から始まった。伏見稲荷大社の起源として語られる八世紀初めの『山城国風土記』逸文に、「秦の長者が餅を的にして矢を射る。的は白鳥と化し山の峰に飛び立ち、留まった処に稲が生えていた。その奇瑞(きずい)により伊奈利(いなり)の社の名とした」とある。
英彦山にはこれより早く継体天皇(五三〇年代)の御世の頃の起源伝承がある。この山中で修行中の魏国の僧・善正は猟をする藤原恒雄に出会う。殺生の罪を説き聞かせるが、恒雄はその戒めを聞かず一頭の白鹿を射る。すると三羽の鷹が現れ、水を檜の葉に浸し鹿に与えると鹿は生き返って去って行った。恒雄は鹿が神の化身であることを悟り、善正の弟子となり後に山中に社を建立したと謂う。
秦氏が開き、初めて現れた稲穂の神を祀る英彦山に、同じく秦氏が広めた稲の豊饒祈願で始まった稲荷信仰の狐霊を還す。再び請われて祀られるまで殺生のない山で修行を積むよう師は願ったものと思う。つまり伏見稲荷より、より原点に狐霊を還したのだ。異論もあるだろうが、私は師の教えを入れそのような祝詞を作文している。
(奈良 泰秀 H18年4月)