宝暦7年(一七五七)十月、郷里の松坂魚町で医者の看板を揚げた宣長は、翌年二月には、のちに活動の母体ともなる「嶺松院歌会」に医者の春庵の名で入会。初めて出詠して活動のスタートを切る。この歌会は三十五年ほど前から開かれ、数年間の中断の後に再開され二十数年続けられていた。ここの同人には宣長の縁戚筋の者も何人か居たようだ。
嶺松院は明治二十六年の大火で焼失して現存しないが、浄土宗知恩院派の名刹・樹敬寺の塔頭八ヵ所の一つ。この樹敬寺には宣長一族の墓が残されており、宣長の家代々の菩提寺。母・勝の実家もこの寺の檀家で、現在、塔頭跡には宣長の歌碑が残されている。
入会した宣長は早速『嶺松院会和歌序』を著し、盆暮れを除き毎月十一日と二十五日に行われる例会に熱心に出席している。
宣長は帰郷して直ぐ、発刊したばかりの賀茂真淵の万葉集の枕詞辞典とも言うべき『冠辞考』を借りて読んだとされているが、本の存在を、この歌会で参加してから知ったとする説もある。いずれにしろ宣長は、
「御名をも、始めてしりける。(中略) つい(遂)にいにしへ(古)ぶりのこころことばの、まことに然る事をさとりぬ」(『玉勝間』) 。と真淵の名を初めて知り、この時、新たに古典研究へ眼を向けたことを伝えている。
歌会に通い出してしばらくして、和歌仲間の問いかけから、藤原俊成の歌にある“物のあわれ”について宣長はあることに気付く。そして、すぐさまあり合わせの紙に書いたといわれるのが『安波礼弁』と『紫文訳解』。
「(“物のあわれ”について)“心には解(さと)りたるやうに覚ゆれど、ふと答ふべき言なし”」(『安波礼弁』 。自分の心のなかでは解っているように思ってはいたが、いざ答えようとするとうまく説明できない…)
「“(略)歌道はアハレの一言より外に余儀なし。(略) 和歌みな、アハレの一言に帰す。されば此道の極意をたづぬるに、又アハレの一言より外なし。(略)伊勢源氏等の物語みな、物のあはれを書のせて、人に物のあはれを知らしむるものと知るべし。是より外に義なし”」(『安波礼弁』。歌道も和歌も極意は“あわれ”。伊勢物語・源氏物語も“物のあわれ”を書いており、読む者に物のあわれを知らせるものと理解すべきだ。これ以外に道理はない…)
両書を合わせてもわずか数枚のものだが、宣長の“物のあわれ”観は、ここで初めて現われる。
感動や感歎を揺れ動く人の心はさまざまなものを感じることができる。あわれとは、「見るもの聞くもの触れることに、心が感じることで出る嘆息の声」「“情に感じる事は、みなあわれ也」(『石上私淑言』) だと宣長は言う。
和歌や『源氏物語』によって“物のあわれ”に開眼した宣長は、新たな思想構築に向かって進んでいく。ほどなく自宅の奥座敷を会場に『源氏物語』の講釈を開始する。この講釈は歌会の会員が発起人となり、初めは歌会の会員を対象に行われた。講題となるのは『古今集』『新古今集』『万葉集』『源氏物語』『伊勢物語』『土佐日記』等々、それ以後ひと月に数回、四十年にわたって続けられることになる。
帰郷して二年余りが経った宝暦十年の正月、三十一歳の宣長に前の年からあった縁談がまとまり婚約をしている。相手は同じ町内の大年寄を勤めた有力者の娘、村田ふみ。同年九月、ふみは婚礼を一週間後に控えて、なぜかみか(美加)と改名している。
だが、どういうわけかこの結婚は僅か三ヵ月で破局を迎えてしまう。記録魔の宣長も離縁の理由を記さず、真相は不明。医者と学問を両立させて生活する宣長とあまりにも違った環境に育ったとする説や、嫁姑の確執などが取り沙汰されている。なにがあったのかは判らないが、この頃の嶺松院歌会で残した四首の歌には離婚の心境が投影され、宣長の悲哀が窺える。
翌年の夏、宣長にまた新たに縁談が起こる。相手は京都で学んだ堀景山塾の同門・草深玄周の妹たみ。みかと離婚の一年半後、宣長はこのたみと再婚している。かつて宣長が京都修学中、父親の十七回忌の法要で帰省の途中に、予約した宿から津藤堂藩医の草深家に立ち寄り深夜まで話し込み、そのまま泊まったことがある。
以前、学習院の国語学の大野晋先生は、宣長はこのとき出会ったたみが忘れられず、それが原因でみかとの離婚になったのだろうと新聞に発表されている。それはあくまで仮説だが、他家に嫁ぎ、夫に先立たれて短期間で未亡人となって実家に帰っていたたみと、三ヵ月とはいえバツイチの宣長の結婚は、それなりにスムースに運んだようだ。宣長三十三歳、たみ二十二歳。結婚と同時にたみは宣長の母と同じ勝と改名している。これはたみの実家からの強い要望だったそうだ。
婚礼の翌月、宣長は『冠辞考』を購入している。帰郷して他人のものを借りて読んでから四年半も後のこと。よほど手に入れたかったのだろう。
そして翌年の宝暦十三年五月、生涯に一度の出会いでその後の人生を大きく変えたといわれる真淵との対面を果たす。八代将軍吉宗の次男・田安宗武に仕えていた真淵が参宮の帰途、宿泊先とした松坂の新上屋を訪ねての面会。その様子は佐佐木信綱によって描かれ、戦前の教科書にも載せられてよく知られている。当時六十七歳の真淵は、長らく万葉集に関わりすぎたことですでに年老い、古事記を説くまでは到らず、
「いましは年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ学びなば、其心ざしとぐること有べし」(『玉勝間』)。 と宣長に古事記の研究を託したという。
学問とは厳しいもの、いきなり高い所へ昇ろうとする者が多いが、まずは低い所をよく固めておいて、それから高い所へ昇るのが良い、といった助言を与えた。宣長が『古事記傳』にじっくり三十五年もの年月をかけて完成させたのも、真淵の助言があったからだ。
翌月から宣長は江戸の真淵へ書簡での教えを乞う。併せて入門の許諾を待つが、半年ほど経った年の瀬に入門を許されている。
そして真淵との対面の後の『石上私淑言』(未定稿)では、物のあわれを知る心を基底に置きながらも姿勢は国学論へと展開していく。
面会から六年で師の真淵は帰幽するが、宣長は医者の仕事と講釈と執筆の生活の中で、着実に高い所を目指して昇って行く。徐々に名声を高め、門人の数も増え、辿って来た宣長のわが道は大道となりいまに続いている。
(奈良 泰秀 H18年2月)