伊勢・豊受大神宮(外宮)

今回は、近畿圏を始め、その周辺に点在する元伊勢伝承の背景にある神道五部書と、それを教典とした伊勢神道に就いて触れたい。
伊勢神道とは鎌倉時代に伊勢の外宮・豊受大神宮の祠官の度會氏によって創唱され、度會神道または外宮神道ともいわれる学派神道である。学生時代、神道学の安津素彦博士は、外宮を中心とした信仰を唱えたものであるから伊勢神道という名称は相応しくないと言われた覚えがある。それは措き、当時、世に神仏を習合させた本地垂迹の教えが席捲するなか、仏教や老荘思想を包含しながらも神道サイドから発信された神道教説が、伊勢神道・外宮神道なのである。

この伊勢神道の発生については明らかでなく諸説ある。その流れを鎌倉・室町期のそれを前期とし、発生より三百数十年以上経った江戸初期より中期にかけての普及を後期として区別する。前期にはこれを拡めた度會行忠・度會家行・度會常(つね)昌(よし)等の名が挙がる。

伊勢神道の勃興には、文永の役(一二七四年)と七年後の弘安の役の、二度にわたる蒙古襲来によって引き起こされた社会的混乱のなかでナショナリズムが高まったことと、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して建武の中興が成り、更にその後の南北朝の対立で、政治的・軍事的に力を持つようになった天皇を中心とする神国思想が強まって来たことなどが影響している。すなわち神仏を合体させ仏を主、神を従とした本地垂迹説を排除し、神を本とし仏を従とする教理を体系的に整えた、初めて神道側が唱えた神道神学とも云うべきものだ。

そして、天照大神を祀る内宮に対し、豊受大神を祀る外宮が優位にあるという思想的意図と、その正統さの根拠を説くという作為的な政略性も込められている。豊受大神は國常立尊・天御中主神・大元神・御饌都神と異名であるが同じ神であり、天照大神の出現以前の神で至高尊貴にして最高神であるとする。また、内外宮が相俟って神威を揚げ、世の人々の救済にあたるという二宮一光説も掲げている。後期となる江戸時代の中頃には、度會延佳(のぶよし)が、儒教や陰陽五行などの思想をも取り入れ、道徳的な教説を唱えている。

この伊勢神道の根本経典とされ、教義の核を為すのが神道五部書である。それは

(一)天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記(あまてらしますいせにしょこうたいじんぐうごちんざしだいき)

(二)伊勢二所皇太神宮御鎮座傳記(いせにしょこうたいじんぐうごちんざでんき)

(三)豊受皇太神御鎮座本紀(とようけこうたいじんごちんざほんき)

(四)造伊勢二所太神宮寶基本紀(ぞういせにしょだいじんぐうほうきほんき)

(五)倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)

神道五部書(鈴鹿文庫)

の五書である。特に(一)次第記、(二)傳記、(三)本紀の三書は、三部秘書ともいわれた。この神道五部書に他の三書を加えての神宮八部書、また、五部書に他の七書を加え神道十二部書などといった呼び方をされているが、伊勢神道に関連したこれらは“禁河の書”とも称され持ち出しを禁じ、極秘とした書は六十歳以下の者の披見を許さなかったという。

このように伊勢神道において重要な扱いを受けた神道五部書だが、それぞれが奥書には上古の撰述の体裁を執っているがそれはすべて偽りで、遡っても鎌倉初期あたりに成立させたものだ。次第記は奈良朝以前、神主・阿波羅波命が撰述したようにされているので阿波羅波記ともいわれている。傳記は、皇大神宮の大神主だった彦和志理命が雄略天皇二十二年(四七八年)に詔命を受けて撰述した如く記されている。猿田彦神の子孫とされる太田命が五十鈴川の上流で皇大神を迎えた記述などがあるところから、大田命訓傳ともいわれている。また御鎮座本紀は、大神宮の大神主の飛鳥により撰されたことになっていることで、飛鳥記とも称されている。五部書のなかで最初に著され最極秘本とされる寶基本紀は、神龜二年(七二五年)の撰としている。実際は五百年以上も後の鎌倉初期に書かれたもの。そして倭姫命世記は、焼失して所在不明の太神宮本紀の下巻ともいわれる。先の大神主飛鳥の孫である御気(みけ)が倭姫命から伝えられたものを書写し、同じく大神宮の禰宜の五月麻呂が、神護景雲二年(七六八年)に撰録したものとしている。だがこれとてまったくの虚説だ。

この五部書は、最初に(四)寶基本紀が成り、最後に(五)倭姫命世記が編されたともいわれていたが、現在では、寶基本紀に拠って倭姫命世記が書かれ、この二書を視界に入れながら(二)傳記が出され、更に、この傳記を基として残りの二書の(一)次第記、(三)本紀が成立したというのが定説のようだ。そのためにそれらの書物の間での転用重複部分が多い。鎌倉時代の前期とされる頃は、あとから出された(一)・(二)・(三)での三部書と云われていたものが、後期になり宗教的主張を鮮明にした(四)・(五)を加え五部書としたもの。ゆえに神道五部書という名称は近世のもので新しい。

そして江戸の中期以後、この神道五部書は偽書として激しく糾弾される。いかに伊勢神道の教典だとしても、上古に撰述の体を装いながら後世に出された記紀を始め皇大神宮儀式帳や延喜式、古語拾遺などからの引き写し、借用部分が多いことは、偽書と断ぜられてもいたし方ない。古文献を取り込み権威付けにしようとしたものだろうが、偽書は偽書なのだ。前回触れた名古屋東照宮祠官の吉見幸和(ゆきかず)は、六十四歳のときに五部書説辨を著すが、「古語拾遺ノ文多ク盗取ルコト五部書皆同ジ。」「五部書ノ文飾ニシテ欺瞞多コトヲ知ルベシ」と酷評する。幕末・明治の神道家で神宮の禰宜でもあった御巫清直(みかんなぎきよなお)は、四十年近くをかけて太神宮本紀帰正鈔(だいじんぐうほんぎきせいしょう)を世に出す。そこで「太神宮本記ノ散片ヲ得テ、前後ヲ潤色シ、倭姫命世記ト偽作シヌラムトソ思ハルル」などと多少遠慮がちに偽作性を指摘しているが、場面によっては「信従スルニ足ラズ」とも断じている。東の篤胤、西にこの人といわれた国学者・伴信友も批判する側に廻っている。國學院の小野祖教博士は中庸を得た言い方をしている。「その教典の中の旧伝には、とるべき古伝承を残してゐる点と、妄作といふべき無責任な偽説とが混在してゐる。そして、奈良朝以前の古典の風をよそほはしめたものが多く、偽書といはれる類に属して、そのまゝ古神道の教典とはなし難い欠点が多い」と云い、さらに続けて、「神道史上、神学的、自主神道的萌芽をもつことゝ、後の諸家の神道の発生を促した実績とによって、歴史的価値を認むべきものであるが、純粋神道の立場からいへば、オーソドクスの資格に於いて欠けるところが少くない。」

(奈良 泰秀 H17年6月)