前回、九月中旬に行った講演『シオン長老の議定書』の背景についてお伝えした。当日は混雑でごったがえし、ご来場の皆さんには大変ご迷惑をおかけしてしまった。ゲストに、戦後独立した新宗教教団に影響を与えた「竹内文書」の継承者・竹内康裕氏をお招きしたこともあって遠路、九州や関西・中部・東北からも教団関係の方にお越し頂いた。このコラムを読まれている方も多いので紙面をお借りしてお礼を申し上げます。
自分の講演に不満は残ったが、質疑に集中した竹内文書や失われた十部族、日ユ同祖論、ユダヤの世界征服説、フリーメーソン陰謀説といったテーマがかなりの人たちの興味を惹くことを、改めて思い知った次第。今後このようなテーマは控えようと思っているが、それでも地方での講演のお声を掛けて頂いた。
三千年前、栄耀栄華を誇ったソロモン王の没後、国は分裂し、十部族の北王国と二部族の南王国に分れる。農業豊饒と生産生殖の雷雨神・バァルを奉じた北王国は、紀元前七二二年にアッシリア帝国に滅ぼされる。王国を形成していた十部族は離散し、“失われた十部族”として消えてしまう。このバァル神を日本の「牛頭(ごづ)」の原型とし、古代ユダヤと日本の風習や神道行事に共通性を見いだし、失われた十部族の日本渡来説は日ユ同祖論にも繋がり、新宗教系の教団にはそれなりのロマンを与えているようだ。
最近、雑誌の編集者から竹内文書に関する資料が送られてきた。竹内文書と表裏一体にあった磯原の皇祖皇太神宮天津教での神宝拝観者リストを見た。山本権兵衛、寺内正毅、山下奉文、東条英機、畑俊六といった数多の元帥大将クラスが名を連ね、軍人の信奉者の多さとその影響力に驚かされた。昭和十年の暮、第三次の弾圧情報を得た天津教側は、一時期この神宝を靖国神社の遊就館に保管を託している。記紀神話に拠って確立された皇国史観の否定ともなる超古代の世界天皇の皇統譜を、時代の趨勢は、これを宗教書、或いはロマンとして捉えることを許さなかった。
いずれにしろ新宗教系の教団にとって、ユダヤ問題や竹内文書は、必須アイテムといえよう。
祭事の行事作法の講習会や教義の研究、教団運営の相談などを受けることで、私共の研究会も幾つかの教団と関わりを持っている。昭和の終り頃に創始した新新宗教といわれる教団もあれば、既に教義と祭事を確立させて熟成した教団もある。
これまで宗教界は、伝統宗教、新宗教を問わずオウム事件の後遺症に呻吟してきた。だがここへ来て、独自の活動で急成長している教団や、元気を取り戻した教団も見受けられる。未だ草創期にある教団の初代教祖には、どうゆうわけか女性の教祖が多い。それぞれが幼少の頃より持ちあわせている霊能的素質がなんらかのきっかけで覚醒し、立教に及ぶ例が多い。当然だが若い教団には活気がある。初代の揺籃期には神の啓示によって祭神や教義が変更される場合もある。これもパワーが発揮されている証しだろう。しかし、世のため人のために活動をする新新宗教系の教団にとって気を付けなければならないことは、勢いにまかせて方向性を誤り、多少でも正道から逸れていくと、先へいってカルトの汚名を着せられ社会から指弾される虞があることだ。
北陸福井の「宇宙神教光明会」の教主・中村和子氏が何人かの側近を伴って講演会に来られた。中村氏も初代教祖。宗教名は明峰(みょうほう)黄紫院(おうしいん)。儀式には一部に神仏混交的な要素もみられるが、古神道をベースとしている。大祭のほか行事作法の講習や祭事指導で何度か伺っている。行くたびに教団全体が明るく元気印の印象を受ける。明るいが職員や信徒の躾は厳しそうだ。
光明会の主祭神は、天照大御神(古事記に出現)と同神が別の働きをする大日(おおひる)孁貴(めのむち)(『日本書紀』)が同化された、大宇宙神であり教祖の守護神でもあるシンボリックなアマテル大神。および光明大神。宇宙神教光明会は単なる宗教ではなく、宗教・芸術・哲学・科学を内包した一つの無形の宇宙と捉えている。自然界の人体の一体化、神霊パワーによる体質改善、人類のカルマの浄化を、三原則としている。さらに、宗教や物質や執着心に偏ることなく、人間の生と死と霊魂の在り方を考え、幸せに生きるための心と身体を育て、平和な社会をつくることを目標にする、といった理念も掲げている。
十年以上前のことだが、神道学の聴講で何年間か大学に戻っていたことがある。社会宗教学の石井研士氏が時おり授業で使う映像のなかで、初めてこの中村和子氏を見た。石井教授の映像は、テレビなどの宗教関係の番組や報道番組からカットしてまとめたものだが、明峰教主がオーラを発する掌を突き出し、それを受けて笑いながら転げる会員を撮ったものだった。
明峰黄紫院・中村和子氏の宗教的遍歴の足跡はほぼ皆無に等しいが、教祖となる一つの典型とも思える。福井県勝山市に生まれた彼女は小さな頃から予知能力や霊感が強く、周囲に風変わりな女の子に思われていたようだ。長じて自身の高熱などの身体的変化で厳寒の滝行に導かれ、その満願の日に神の啓示を受け自らの使命を悟ったという。昭和五十年(一九七五)に大阪と福井に神霊相談所を設立。定着した熱心な会員の支援により母胎ができ、神示により福井県吉田郡上志比村を聖地と決め、昭和六十年に宗教法人を取得している。翌六十一年、光明神殿を建立。同時に光明会本部を設置し、本格的な布教活動を展開して現在に至っている。
この聖地附近には以前から語り継がれていた伝承があった。啓示によっての掘削で、地下四メートルの処から八メートル角大の女神岩と称される岩石と、ペトログラフ岩が発見されている。三方が山に囲まれ、蛍の飛び交う清流の滸にある聖地は、大自然の息吹きのなか、森厳な神気が漂っている。同じく啓示により神の降臨の斎庭としてピラミッドを想わせる光明挺山が、会員のみの奉仕によって建設もされている。会報での鼎談やセミナーの講演をお願いした宗教学者の島薗進氏は、故郷が崩壊し母性が喪失したいま、これからの教団聖地はその役目を担うべきことを語っていた。まさにこの地を次世代に向け“癒しの郷(さと)”として世に拡めるべきだと明峰教祖に提言している。十月には大祭があるが、そのクライマックスに岩笛の吹奏を依頼された。厳粛な神事とその後の妙に明るい祭典を心待ちにしている。
機会があれば他の教団も紹介したい。
(奈良 泰秀 H17年10月)