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「にっぽん文明研究所」 代表 奈 良 泰 秀 花を愛で、これをいける楽しみを覚えてから十数年が経つ。ふとしたことから薦められて始めた事だが、今では主宰する研究会で華道講座を設け、アドバイザーを招いて二ヵ月に一度、勉強会を催している。私共の作品はこの小冊子冒頭の写真でお眼に触れている筈だが、いわゆる流派などの組織が決めた、型から入るといった決め事のあるいけ方の花ではない。先ず花に親しみ自分の個性や感性を季節の花に託し、それなりの世界を創る―、ことを楽しむのを目的としている。 だが、流派の約束ごとも免状も無いという事で、ただ楽しむため勝手に活けて良い、ということではない。どのような花をいけるにしても、時、背景となる場所、器に依り、先ずはそれなりの心の持ちようが大切であり、それは結果として必ず作品に現れてくる。 この花をいける心とは、即ち花と心を通わせることでもある。 一神教を信奉する西洋世界での花の捉え方は、華麗さや機能的な装飾美といった点を強調するが、我々の先人は花の美しさに生命と心を与え、敬いの心や儚さ、もののあはれという情緒的な捉え方をしてきた。それは自然の中に神が宿り、常緑樹を神籬とし、草花をも依代とする思想が根底にあった。 千二百年以上も前に成立した最古の歌集『万葉集』には、更に四百年遡って詠まれた歌を始め、天皇から名も無い一般庶民の男女を作者として、約四千五百首もの歌が記されている。ここには、百六十種を超える草花が歌のなかに詠み込まれており、如何に四季の移ろいや自然の生成に気を配り、花に心を寄せていたかが読み取れる。大地に大らかに咲き乱れる色とりどりの花に、なんら技巧を施すことなく有るがままの姿を愛で、想いを託している。 伝えられた仏教が日本の土壌に根を下ろしたことで、仏前に花を供えるという行事と、太古からの依代思想が除々に習合し、ひとつの形式を創っていったことは当然の帰着かもしれない。 現在、日本の伝統文化は「型」の文化として捉えられている。 学生時代空手道部に籍を置き、今もOB会の事務局を預かるが、空手の稽古は「型」に始まり「型」に終わると教えられた。この基礎となる「型」を実戦の自由組手の摂り入れ、気を集中して巻藁を突き、更にひとり無心に突きや蹴りを重ねて技を磨き、精神を昂めていく。この理論に基づいた「型」に規範を求めて動きを完成させることは、誰もが修練により可能といえる。 いけ花は室町期に、型=様式として神仏に捧げ奉る“立て花”が創造されて成立し、以後、現代まで時代の変遷と共にさまざまな様式の変化を見るが、根底にある花を依代として見るいける精神性は、変わることなく普遍性で貫かれている。 私共の花は、この「型」に当て嵌められた花の対極にある、有るがままの花の良さを引き出し、どの様な表情を与えるかという、なげいれの花だが、型をなぞる花に較べれば、はるかに難しく奥が深い。私は、いけられた花には、そのひとの品性そのものが表れると常に思っている。花の技を磨くことは品性を高めることだ。 花は儚い故に美しい。摘み取ることで一度終焉を与え、處と器といけるひとの想いで新しい生命が甦らされる。真剣に思えば身が引き締まると同時に、再生の醍醐味を味わえる。 新しい歳の向かい霊力を得て甦りを願うのは神道の理念。 先ずはおめでとうございます。 |
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