尊い神が発せられるお言葉が神勅である。神託、神宣といった言い方もあるが、神が直接告げられる場合と、人の求めに応じて宣(の)り下す場合とがある。『古事記』の初めに、天つ神一同が、伊邪那岐命と伊邪那美命に「(ふわふわと浮かんで未だ形の整っていない)是のただよへる國を修理(つくり)固成(かためな)せ」と詔命を下すが、これが最も古い神勅とされる。
『日本書紀』に神勅の記事がある。高皇産靈尊(たかみむすびのみこと)が天兒屋根命と太玉命に伝えた『神籬(ひもろぎ)磐境(いわさか)の神勅』。これは皇統の永遠性と弥栄を基本とする祭祀の尊重と厳修を伝えたものだ。
同じく紀にある天照大神が下された三大神勅は、国体の理念を表すものとしてよく引き合いに出される。これにもうひとつを加えて四大神勅、それに、先の高皇産靈尊の神勅をいれて五大神勅といわれている。
既に神勅についてご存知とは思うが、天照大神が天孫の降臨する際に宣告し、皇位の確定とその正当性の根拠とする「宝祚無窮(ほうそむきゅう)、または天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅」(“天津日嗣の神勅”ともいわれる)。わが子天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)を通し皇孫に伝えられた、神祇と祖霊への崇尊と、皇室と伊勢神宮の祭祀の起源となる「寳鏡奉斎、または、同床共殿(どうしょうきょうでん)の神勅」。天兒屋根命と太玉命の二神に、稲作の神聖と、生きていくうえで最も重要な食の道の精神性を示された「齋庭(ゆには)の穂(いなほ)の神勅」。以上の三大神勅に加え、同じくこの二神を通し、皇室への忠誠と崇敬の念を示された「侍殿防護(じでんぼうご)の神勅」がある。
天照大神は、皇統の祖・天忍穂耳尊の御子で、御孫(すめみま)の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に、天つ日嗣、すなわち皇位継承の御しるしである三種の神器を授け、葦原中国に降臨して国土統治の使命を与える宝祚無窮(ほうそむきゅう)の神勅を下すが、この三種の神器とは、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙劔(くさなぎのつるぎ)である。
そして天照大神はこのうちの八咫鏡を、“吾(あ)が兒(みこ)、此の寶鏡(たからのかがみ)を視まさむこと、當(まさ)に吾(あれ)を視るがごとくすべし。與(とも)に床(みゆか)を同じくし、殿(みあらか)を共(ひとつ)にして、齋鏡(いはひのかがみ)と為(な)す可(べ)し”との寳鏡奉斎の神勅を発せられるが、『古事記』には、“此れの鏡は専(もは)ら我(あ)が御魂(みたま)と為(し)て、吾(あ)が前(みまへ)を拝(いつ)くがごと、いつき奉れ。”とある。この鏡をみることは私を見るように、私の御魂と思い、同じ宮殿に奉斎し、常に私の前にいるようにお仕えしなさい、といった意味だ。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は父の天忍穂耳尊に替わって三種の神器を奉持し、日向の高千穂の峰に降臨する。そしてこの日向での三代、天照大神から六代を数え、のちに初代天皇となる神日本磐余彦尊(かむやまといはれひこのみこと)(『記』では神倭伊波禮毘古命)・神武天皇の誕生となる。神武天皇は西のはずれの日向から軍を起こし、東征に向かう。月日をかけた戦いをくり返し、大和の敵を平定して畝傍の橿原の宮殿で第一代天皇として即位する。
やがてときは経ち、第十代・崇神天皇の御世を迎える。崇神天皇の六年、国内には疫病が流行り多数の民が失われる。百姓は流離(さすら)い、反逆する者も出て来て、徳政を以ってしても治め難く、神祇への請願が行なわれる。それまで、宮中には天照大神と倭大國魂神(やまとのおほくにたまのかみ)の二柱の神が祀られていたが、その神威の勢いを恐れ畏み、“共に住みたまふに安からず”と、天照大神の御霊代は皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託され、大和の笠縫邑(かさぬひのむら)で祀られることとなる。そこには堅固な石の“磯堅城神籬(しきひもろぎ)”が造られる。一方の大國魂神(おほくにたまのかみ)は、同じく皇女・渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)によって祀られる。
ここでそれまでの歴代天皇による同床共殿とする奉斎の形態は改められ、皇居と神居は別となり、その奉斎は未婚の皇女に託される。
さらに、それまで共に祀られて来ていた天つ神の天照大神と、国つ神の大國魂神(おほくにたまのかみ)は分離される。天照大神には、さきの豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が御杖代(みつえしろ)(斎宮の通称。神に奉仕し、神の杖ともなる者の意)として仕えるが、やがて次の第十一代・垂仁天皇の二十五年、垂仁天皇の皇女・倭姫命と代られる。斎宮となった倭姫命は、御杖代として天照大神の鎮め奉る処を求め、笠縫の地より巡幸の途に着く。紀に謂う。“爰(ここ)に倭姫命、大神を鎮坐(しづめま)させむ處を求(ま)ぎて、菟田(うだ)の筱幡(さきはた)に詣(いた)る。更(また)還(かへ)りて近江國に入り、東(ひむがしのかた)美濃を廻りて伊勢國に到りたまふ。”このとき、天照大神からの誨(おし)えがあり、“この國に居(を)らむと欲(おも)ふ”との仰せられる。そして誨えのとおり祠(やしろ)を建て、五十鈴の川上に斎宮を設け磯宮(いそのみや)と名づけるが、ここは天照大神が初めて天降った処だと謂う。ここに伊勢の神宮の創建をみる。
『日本書紀』は官撰の国史である。いっぽうの『古事記』は大和朝廷の伝承をベースとして、それまでの誤った伝承を整備したものとされてきた。だがどうしたことか、天照大神を伊勢に遷祭したことにはまったく触れていない。また紀の記事にある、同床同殿の詔命に違い、大神の御霊代が皇居を離れたのはなに故なのか。それと、どうして倭姫命は大神を奉じ、不自然な行程を辿り伊勢に赴いたのか…。これらのことに就いて、確たる検証はされていない。皇居を出られたのは、大和における皇室の権威の確立を示す、といった意見や、未だ不安定な政情にあって抵抗する諸部族に遠慮があって、といった意見もある。また、倭姫命の行路は、かつて、壬申の乱で勝利を収めた天武天皇の軍勢が進んだ経路の逆を辿っているとの見方もある。いずれにしても記紀からこのあたりの正確な史実は見えてこない。
ここに、実際はごく一部の透明度の高い例外を除き史実と認められていないが、史実とも架空とも云えるような伝承が生まれる。元伊勢伝承である。この伝承は、伊勢神道の教典的な神道五部書五巻のうちの一巻『倭姫命世記』に負うところが多い。この神道五部書は、上代に撰述された体裁をとっているが、実際は五巻とも総てが鎌倉時代の中頃に完成したもの。当然偽書説はついてまわる。江戸中期、尾張名古屋の東照宮は熱田神宮を凌ぐ勢いがあったというが、ここの祠官で神道家として多くの著書を世に出している吉見幸和は、神道五部書の偽書たることを徹底的に批判し、五部書説辨を著している。五部書の作者は不明だが、外宮の神主によって纏められ、さらに渡會行忠等によって手を加えられ仕上げられたと云われている。
五部書については次回にするが、倭姫命世記も古語拾遺を始め、紀やその他からの転用が多く、古書の継ぎはぎだけでは済まない文脈の乱れを指摘されたりもしている。
だが、この倭姫命世記は、ロマンを伴う元伊勢伝承に誘う。
(奈良 泰秀 H17年6月)