この元伊勢のテーマの始めに、私共のスタッフが各地の元伊勢比定地内にある六十社の資料を集めたことを伝えたが、その後、可能性のある地は更に増えて約九十社となった。多ければ良いことではないが、現地へ何度か足を運び、その内の約三分の一を巡った。それぞれが上古に繋がっていることを体感したが、個々の神社についてはいづれ出版される本のほうに譲り大まかな紹介をしていきたい。
日本書紀では皇孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大神から授けられた神璽は、歴代天皇により同じ殿で床を共にして宮中で奉斎されてきた。第十代崇神天皇に至り、皇女豊鍬入姫命に託され宮中の外に出て笠縫邑で奉侍されることになる。
このことを、奈良の三輪山麓でご出生され、かつて國學院で教鞭を取っておられた歴史学の樋口清之博士は、昭和三十年代初めに大神神社が発行した冊子「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)の神蹟(しんせき)」で、 “この神器御奉遷の史実は、上古前期に於ける日本国家の異常なる膨張の結果 ―。”と捉え、祭祀様式の変革として祭政一致の我が国史上に最も意義を有する事件、と言われている。ほかには、皇室の神より地域神への画期的発展とする説、飢饉や動乱で国が乱れ戦火の及ぶことを恐れての避難措置説、大和地方においての皇室の権威確立とする説など、さまざまな説き方がされている。
その元伊勢伝承の嚆矢となる笠縫邑の地は、現在まで確定されていない。だが擬せられるところは何ヵ所かある。前回、磯城郡田原本町にある真言律宗の秦楽寺境内の小祀・笠縫神社と、同じ町内の多(おお)神社、その東にある多神社摂社の姫皇子命神社の三ヵ所を挙げた。
神社本庁の後輩が送ってくれた資料では、笠縫邑の比定地が三ヵ所ある。この笠縫神社、大神神社の北にあって大神の摂社群で最も社格の高い檜原(ひばら)神社、桜井市笠山に鎮座し、役小角も修行した笠山三宝荒神ともいう元は仏教系だった笠山荒神社の三ヵ所。
元伊勢の本としてよく取り上げられる大阪府神社庁の[伊勢の神宮]では始めに三輪山東北の巻向山に鎮座し、応仁の乱のときに兵火と衰頽で遷座した巻向坐若御魂(まきむくにいますわかみたま)神社と穴師坐兵主(あなせにますひょうず)神社の二社を合祀した三座一社殿形式の穴師大兵主(あなしおおひょうず)神社を取り上げている。この神社には、当麻蹶速と野見宿禰が相撲を最初に取ったという相撲発祥の旧蹟地があり、相撲神社が境内社としてある。このほか檜原神社、笠縫神社、旧官幣大社の大神(おおみわ)神社、高市郡明日香村の延喜式内大社・飛鳥坐(あすかにます)神社の、五ヵ所の写真を載せている。その他には笠山荒神社、紀の崇神天皇七年の条、“天皇(すめらみこと)、乃(すなは)ち神淺茅原(かむあさぢはら)に幸(いでま)して、八十萬神(やそよろづのかみたち)を會(つど)へて卜問(うらど)ひたまふ。”の記事の神淺茅原とは笠山の麓の桜井市小夫とし、天照皇大神を祀ることで元伊勢を喧伝している小夫天神社(おおぶてんじんじゃ)、同じく紀の宮域の記事により磯
城瑞籬宮址の標柱がある桜井市の式内大社・志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社を挙げている。
片山景空氏の「倭姫命御巡幸地」では、いままで挙がった笠縫、多、姫皇子命、檜原、大神、飛鳥坐、穴師大兵主、小夫天神、志貴御県坐、笠山荒神の十社に、鎮花祭と三輪山の神水が湧くことで知られる大神神社摂社・狭井(さい)神社も入れ、笠縫邑として十一社を記している。
これらの所在地はいずれも奈良県の桜井市と磯城郡、高市郡のエリアに収るが、それでも笠縫邑の比定地はかなりの広範囲にわたる。
正史の日本書紀に記されている笠縫邑は、聖蹟の顕彰という意味もあり近代に入ってからも考証研究がされてきた。
伊勢神宮研究の碩学大西源一博士は、先の樋口博士と同じ大神神社の研究リポートで、笠縫邑の擬地としては大和の国の内に八ヵ所あると発表されている。それは、
(一)三輪の茅原 (二)三輪の檜原
(三)巻向の檜原 (四)志貴御県神社の地
(五)笠山荒神の社地 (六)小夫天神の社地 (七)新木及び秦庄の地 (八)飛鳥神社の社地
の諸地である。
そして八説の内、文献と地理地形を照し実地を踏査した結果、笠縫邑の最有力地として、(二)の三輪の檜原、即ち大神神社の摂社の檜原神社を挙げておられる。檜原のほかに考察の価値があるのは、(一)の三輪の茅原、(四)の志貴御県神社、距離的に難があるが笠縫邑の磯城(しき)神籬(ひもろぎ)の霊蹟として不適当ではないとも思えると(八)の飛鳥神坐社を挙げておられる。
(三)の巻向の檜原とは、巻向坐若御魂(まきむくにいますわかみたま)神社の合祀される前の旧地名だが、まずこれは全然問題にする価値がない、と切って捨てておられる。(五)の笠山荒神と(六)の小夫天神についても、磯城の域内でもなく根拠が極めて薄弱だと言われ、小夫天神は古文献には見えず、近世に入ってから造文された由緒など極めて怪しげだとし、笠山荒神に至っては笠の地名を唯一の根拠としているが、笠を冠する地名は三輪附近にもあると否定的な指摘をされる。
また (七)の新木及び秦庄の地は、前回伝えた笠縫神社や姫皇子命神社などの所在地だが、その地は大和平野の中心地で、飛鳥川や寺川などの水脈があり一旦大雨に遭えばたちまち氾濫でもしそうなところで、かかる湿地に大御神をご奉斎されたとは常識からいって考えられない、とにべもない。だがそのような決めつけ方が妥当かどうかは手をこまねいてしまう。
そして(一)の三輪の茅原説だが、前出の“神淺茅原”が、神楽歌に“笠の淺茅が原に”という一節があり、その笠は笠縫邑の笠と関係があり、今の大三輪町茅原がすなわち笠の浅茅原で、そのところが笠縫の邑の古地であろう、と言われる。これは(二)の三輪の檜原説補強のための側面からの考察だが、古謡に頼る三輪の茅原説の論拠も薄いものではと思えてしまう。
このように元伊勢伝承第一号の比定地からは多くが語られる。「倭姫命世記」では不自然だが豊鋤入姫命は天照大神を奉戴して丹波から大和に、更に紀伊・吉備を廻りまた大和に戻っている。吉備の国より還った場所が倭弥和乃御室嶺上宮(やまとみわのみむろのみねのうえのみや)(「皇太神宮儀式帳」では美和乃御諸宮)。後輩の資料は御室嶺上宮と笠縫邑は同所か?としているが、この御室嶺上宮と笠縫邑は名称の相違はあるが元来同じところと考えられている。つまりごっちゃにされているのだ。
儀式帳ではここから倭姫命の巡幸が始まっており、世記では、この地で豊鋤入姫と倭姫が交代している。私共ではそれらも視野に入れ、御室嶺上宮の比定地として大神神社、小夫天神ともう一社、大神の摂社で小祀だがかつて三輪山山頂に鎮座していた高宮(こうのみや)神社の里宮で式内社の神坐(みわにます)日向(ひむかい)神社を加えた。
(奈良 泰秀 H17年8月)