廃仏毀釈により焼かれる仏具・経文

 

旧藩幕体制と決別し、王政復古を成し遂げた明治新政府は祭政一致を掲げ、七世紀の律令制度の古制に倣いつつ行政組織の整備に着手する。再興させた神祇官制度の“神”とは天津神、“祇”とは国津神を表し、神祇官とは文字通り神々への祭祀を職掌とするが、それは神祇への信仰によって国民の統合を目論んだもの、と前に述べた。

それまでの国政は徳川幕府が各藩に君臨する形で実権を握っていた。明治維新とは薩摩藩を中心とした少数派のクーデターだったともいえるが、新政権の正統性を確立させるために天皇の権威をことさら強調したことも否めない。新政府が近代化欧米との緊迫の度合いが深まるなか、新しい秩序の規範を天皇中心とした祭政教の一体化に求め、以って人心の統合を図ろうとしたことも、当然の帰着といえよう。

この王政復古は、薩長と連携していた岩倉具視が平田学派の前出の矢野玄道・玉松操・大国隆正などの進言を容れて主導するが、新体制での初めての会議のことはよく語られる。土佐藩の山内豐信(容堂)ほか尾張・越前・藝州などが、参与の徳川慶喜の出席が許されないことを非難して岩倉・薩摩と激しく対立し会議は中断する。再会された会議で、警備役の西郷隆盛が“短刀一本あれば片は付く”と暗殺をほのめかせたひと言で、土佐側が沈黙してしまうというのは有名な話だ。そのような中で、確たる未来展望の見えない急拵えの政府による組織改革に混乱と軋轢が生じたのも当然だったろう。

官職の最高位に再興させた神祇官は二年後には神祇省に降格され、それもその後は教部省、内務省社寺局、その社寺局も明治三十三年四月には神社局と宗教局に分離されるといった格下げが相次ぐ扱いを受ける。これは当初、平田学派の国学者や尊王攘夷運動を推進した水戸学などの影響を受けて成立した新政府が、国体原理を構築させていく過程で神祇行政に明瞭な方向性を見出せなかった結果ともいえる。列強に伍して西欧化を目指す政府が始めは受け入れた国学者たちの復古主義も、実体は時代錯誤的なもので、現実から徐々に遊離していったとの見方もできる。後に子爵に叙せられた福羽美靜などの一部の識者を除き、数年を経ずして平田国学者は神祇管掌から消えて行き、水戸学も政府の特別な保護は得られず衰退していく。

そのように短期間にめまぐるしく変わっていった神祇官制だったが、その間に重要と思える布告を幾つか発している。明治四年五月、太政官布告で「神社ノ儀ハ国家ノ宗祀ニシテ、一人一家ノ私有ニスヘキニ非ラサルハ勿論ノ事(後略)」と、当時全国で十八万近い大小の神社を公的な“国家の宗祀”という位置付けをする。さらに社家の世襲を廃し、「官社以下定額・神官職制等規則」で神社の格付けがなされる。官社と諸社に分けられ、官社には官幣社と国弊社の大中小社、それ以外を諸社として府・県・郷社などに分類された。官幣・国幣は延喜式の社格に倣ったものだ。この社格制度は終戦の年の神道指令で崩壊し、翌昭和二十一年の勅令で完全に廃止された。

また、それまで各地の神社のあり方で運営され、統一性のなかった神職の身分制度や職名・職務内容などを規則によって画一的に統制しようとしたことは、神仏習合があったにしてもそれなりに特色のあった神社の習俗や特性を削いだことになる。

その前年の明治三年正月に神祇鎮祭の詔と、“治教を明らかにし、以って惟神の大道を宣ぶべし(後略)”との大教宣布の詔に基づく神道教化活動が展開され、そのための宣教使が置かれる。神祇官の中に大教殿が設けられ、長崎には出張所も作られる。各藩に宣教担当が置かれるが、この宣教使制度はその後ほぼ機能することなく瓦解する。内部の対立なども影響したようだが、短期間でこの宣教使は廃され、新たに設置された教部省の許で替わって教導職が置かれる。ちなみにこの教部省のもとで仏教各宗派が公認され、欧米からの圧力もあってキリスト教禁制も解かれている。

島津黙雷 (1838~1911)

ここで方針も新たに大教宣布の国民教化に向けた、“敬神愛国”“天理人道”“皇上奉戴”の「教則三箇条」が掲げられる。この教導職には、神仏分離と下火になりかけてはいるが廃仏毀釈の洗礼を受けた仏教各派も参加し、さらに一般の有志も参画して、神仏連合の大教院を芝増上寺につくることとなる。前回触れたが、ここに祀る祭神は天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神に天照大神の四柱。明治六年六月に大教院の上棟祭に神仏各派の教導職が合同で参加するものの、十二月の末に放火されてしまう。四神の御霊代は芝大神宮に緊急避難し、翌七年の一月初めに芝東照宮に御遷座されている。

この中央に大教院、地方に中教院、社寺・教会に小教院といった組織が構築され、神仏での合同布教にあたるが、やはり神道と仏教との間の矛盾やトラブルが発生し、明治八年四月に大教院は崩壊してしまう。

王政復古後に維新政府が旧幕府勢力の一掃を目論んだ戊辰戦争に、多額の献金をしたのは巨大教団の真宗・西本願寺。長州藩とも信頼関係にあった真宗は廃仏に強硬に反対し、神仏分離は仏教に対する攻撃が主旨でないことを真宗四派への布達と、各藩に一方的な寺院の統廃合を禁ずる通達を太政官から引き出している。この真宗を率いていたのが島地黙雷。黙雷は立場が逆転して神道側に隷従しての大教院での宣教体制を批判し、教則三条広布に異論を呈する。真宗の大教院からの離脱建白書と、教則三条の批判書を教部省に送りつけ、有名な『神道は皇室の治教にして、宗教に非らざるなり』との訴えを起こす。当時の為政者たちが近代欧米の視察で得た“信教の自由”“政教分離”と、国内で黙雷らが糾弾する“政教混淆”で、同年、「信教の自由保証の口達」(教部省口達書)となる。

そして大教院の解散により各宗派はそれぞれの布教を目指すが、教導職に限定された布教認可では信教の自由があるはずもない。神道側は新設した神道事務局のもとで神道優先の団結を図るが、政府の神社を宗教形態から遠ざける神社非宗教論の立場から明治十五年に神官の教導職兼務を廃され、葬儀や説教への関与も禁じられる。ついに十七年には教導職の廃止となる。一貫性を欠く紆余曲折を経て、神道とは宗教ではなく国体の根幹にあって“国民道徳の基盤”とされる。祭祀道徳を伴ったとしても、個人救済を目的とする他の宗教の信仰とは別のもの、となった。

既に紙面は尽きたが、この項は少し間を置き、稿を改めて続けたい。

(奈良 泰秀  H17年11月)