この夏、“パートナーシップ、平和構築、持続可能な開発”を謳い、“アジア太平洋島嶼国家の共同体を強化する”を、テーマとした「第三回アジア太平洋島嶼国家サミット」が台湾・台北市で開催され、これに招かれた。近い台湾だが今まで訪れる機会がなく、私には初めての訪台となった。
二十カ国を超える国・地域から目的意識を持った百名ほどが参加した中規模の国際会議だったが、日本からは私のほかに国会議員・大学教授など八名が出席した。セッションでは分科会を含め活発な意見が出され、会議の最終日には有志による呂秀蓮・副総統への表敬訪問などもあり、有意義な会議であった。
地球温暖化が進み、あと百年足らずで三十㌢から一㍍の海面上昇が予測されている。海抜の低いオセアニアの島々の国には差し迫った問題だ。マーシャル諸島の平均海抜は二メートルとか。海面が一メートル上昇すると国土の八十%以上が消え、国土経営が成り立たなくなる。このままでは、島々に伝えられて来た伝統的な独自の文化も習慣も宗教も消滅してしまう。すでにツバルでは集団移住が計画されている。
会議を開催した台湾は、西大西洋とアジア大陸との重要な地点に位置する。九州よりやや小さめな面積で、人口二千三百万弱の多民族国家だ。近年、この台湾は外交面でかなり厳しい状況に立たされている。
上海地区を中心として経済発展を遂げる中国政府は、台湾を国際政治の場から追放し、友好国をゼロにして封じ込め、中国との対等の対話カードすべてを取り上げるといういわば現代版“三光政策”の外交活動を推し進めている。経済援助や巨大な市場取引などをチラつかせ、アジア太平洋諸国を親善外交で取り込み、台湾を周辺地域から排除して孤立化を謀っている。中国はさまざまな手段で、台湾を国際社会からその存在を抹殺しようとしているのだ。
政治関係の分科会で、台湾の大学教授が、かつて蒋介石総統が中国人民共和国の成立を認めず、“中国を統治する唯一の正統な合法国家”とする台湾国民政府に固執したことが、現在の状況を作り出した、といった繰言のような講演もあり、現在の台湾の置かれた複雑な状況を垣間見る思いだった。
会議の開催前に短時間だが現地の方に市内を案内してもらった。
高さ五百八メートルで、現在、世界一の高層建築となる台北一〇一ビルは、施工を日系企業が中心となり約七年間をかけて二〇〇五年に完成した。世界初の気圧制御システムを備えた日本製のエレベーターは、僅か三十数秒で八十九階の展望台に到達する。眼下に躍動する台北の街が拡がっていた。二年後の二〇〇八年には、高さは非公開だが、中東ドバイに完成する7百メートルとも八百メートルともいわれる百六十二階のバージュ・ドバイに超高層世界一の座を明け渡す。台湾の人たちはそれを非常に残念に思っているようだった。
一九七五年に八十九歳で亡くなった蒋介石総統は、中正とも名乗ったそうだが、その偉業を称えて建造されたのが中正紀念堂だ。六メートルを超える蒋総統のブロンズ製座像が納められ、内外の観光客が集まっていた。
そして観光スポットで必ず紹介されるのが、儀仗兵交代のセレモニーが行われる忠烈祠だ。忠烈祠とは国に殉じた軍人たちを祀る廟である。当時まだ大陸にあった中華民国政府は、満州事変以降に増え続ける戦死者を、忠烈祠または烈士祠を作り各地に祀った。大陸の多くの関帝廟などが烈士祠・忠烈祠として改変され、戦死者の位牌を奉安して追悼した。
現在のこの台湾忠烈祠の場所は、終戦まで台湾を統治していた日本が建てた、かつての台湾護国神社の所在地でもある。戦後、中国共産軍との交戦状態のなか大陸から移って来た中華民国政府は、初めこの護国神社の建物を利用して台湾省忠烈祠とした。
だが六九年に、蒋総統の指示で、北京の紫禁城内の大和殿の建物を模して現在のような宮殿風に大殿として建て変えられた。それが国民革命忠烈祠となり、ここには抗日戦、国共内戦、金門・馬祖島の戦争などで戦死した三十数万人の英霊が祀られた。台湾各地にある忠烈祠の最高位にあり、本殿の左右には文烈士祠と武烈士祠とに分かれている。
毎年、三月と九月の春秋に行われる祭典は、宗教性は薄いといわれるが、現職の総統が主祭者となって執り行う。これには政府代表の関係者、遺族、学生以外の一般民衆の参加は許されていないという。そしてさらに、文官の文烈士祠の祭典には、文官の司法・立法・行政など五院の長を従えて内政大臣が、武官の武烈士祠の祭典には、国防大臣が将軍や将校を従えて主祭者となる。日本なら、さしずめ首相が戦没者の御霊を祀る靖国神社で斎主を務めるようなものだ。祭神を文官と武官に分け、文科省大臣と防衛庁長官が担当して式典を執り行うようなものだ。
素朴に考えればこのように国家の最高指導者が国のために戦死した人たちを悼むという祭典は、決して無意味でもおかしな事でもない。十を超える少数民族が混在する台湾で、日本と共通するものは、祖霊信仰と死者への慰霊と農耕儀礼だ。祀り方や儀式のかたちは違っていても、日本とも相通ずるものがある。純粋に戦没者への慰霊と追悼を考えるとき、台湾のあり方からみて日本の場合、靖国神社には政治や外交面での関わりが大き過ぎる。首相交代で他国から靖国神社への干渉が現在のところ薄れたように思えるが、台湾を訪れ、神職は、自虐史観などに捉われることなく海外の戦没者の慰霊事情なども調べ、それについてもっと発言すべきだと実感した。
昭和十七年に建立されたこの台湾護国神社の跡地に、今はその痕跡などまったく無い。辛うじて境内にあった水牛の像が台湾省立博物館の前庭に置かれているそうだ。
戦前に台湾の各地に創建された神社跡が、前記のように忠烈祠として改変された例は他にも多くある。地方にある忠烈祠二十一ヵ所のうちの十五ヵ所は神社跡に建てられているという。高雄市の寿山にあった高雄神社は高雄忠烈祠となり、花蓮港庁の花蓮港神社は花蓮港忠烈祠となった。新竹州桃園街の桃園神社は現在、木造の旧社殿をそのまま利用して桃園縣忠烈祠となっている。ほかにも神社跡の何ヵ所かがキリスト教会となっている。鳥居や石段や燈篭などはそのままにされている例が多いようだ。或いは台湾に建立された神社の場合、慰霊の施設ということで痕跡を留めることが出来たのだろうか。
台湾の神社を語るとき、明治三十四年に創建された官幣大社・台湾神社を抜きにはできない。終戦の前年の昭和十九年に台湾神宮と改称されるが、次回触れたい。
(奈良 泰秀 H18年10月)