古事記、日本書紀は内容に謎が多い。古事記の序文は後世の偽作説もあるものの、その成立事情を太安萬侶が記している。
神代から続く歴史を述べ、当時、国を二分した壬申の乱を平定して即位した天武天皇は、歴代天皇の系譜や事跡を記した「帝紀」や各地の伝承を記録した「本辞(舊辞)」が、“既に正實に違(たが)ひ、多く虚偽を加ふ”ことで、これを改めなくては幾年も経たずにその本旨は滅びしまう。帝紀・舊辞は“邦家(ほうか)の經緯(けいゐ)(国家組織の基本)、王化(おうか)の鴻基(こうき)(天皇政治の根本)”で、偽りを削り真実を定めて後世に伝えたいと思う、と仰せになった。そして天武天皇は当時二十八歳だった舎人の稗田阿禮に命じ、これまでの伝承や記録を誦習させた。
しかし時が過ぎ、天武天皇が崩御され、未だその事業は完成していない。その後の持統・文武天皇を経て即位した元明天皇が、和銅四年(七一一)九月、再び安萬侶に、稗田阿禮がそれまで誦習した帝紀を書物にするよう勅命された。安萬侶は翌年の和銅五年(七一二)正月、これを三巻に纏めて献上した。
古事記成立には壬申の乱が強く影響している。壬申の乱は、のちに天武天皇となる大海人皇子と、大海人の異母兄・天智天皇の子で甥となる大友皇子との争い。天武の皇女が大友皇子の妃であるから、舅と婿との戦いでもあった。天下を分けた争乱は、皇族始め臣下の氏族をも分裂させ、敵味方となり対立した。敗北して自害で果てた大友皇子は、それ以前に即位していたと認められ、千二百年後の明治になり「弘文天皇」(三十三代)として追号されている。それまでも皇位継承を巡っての争いは、幾度となく繰り返されてきている。
修史事業といわれる古事記編纂は、天武朝の磐石な王権確立に向けてのメッセージであり、諸氏族の位置づけを伴う再編成を示唆している。大友皇子は庶子であるから、天武朝が皇位の嫡子継承の正当性を広く知らしめる意図もあったろう。
のちの伊勢神宮の創建に到る各地に残る元伊勢伝承も、この壬申の乱との関わりを指摘される。天照大神が巡幸する土地は、この壬申の乱で大海人皇子が軍勢と共に行進した経路を、逆に辿っているというのだ。だが奇妙なことに、伊勢神宮起源の記事は日本書紀のみで、古事記には特に書かれていない。
天武天皇が初めて撰録を命じ、さらに元明天皇が再撰を勅す和銅四年までは、二十五年の歳月が経過している。古代王朝では近親の血脈が入り乱れている。この元明天皇は天武天皇と戦って憤死した大友皇子の妹で、天武と持統の皇子・草壁皇子の正妃でもある。
そのころ、阿禮はすでに六十歳を超えていた。誦習能力も落ち、元明天皇の詔勅での撰録には加わらなかったとする説がある。また阿禮は性別不明で女性説も多く、平田篤胤、柳田国男、折口信夫などが同調している。推理作家の松本清張は、阿禮とは、大和の稗田に住む巫女集団を称したもので、宮中行事に参加して記憶していた説話を語ったとしている。安萬侶は元明天皇の詔勅に応えて僅か四ヵ月で献上しているが、あるいは語り部の巫女集団の協力があったのかもしれない。
古事記が元明朝に献上されてから八年後に日本書紀が成立している。ときは美貌の女帝の四十四代・元正天皇の御世だ。元正は草壁皇子と元明天皇の子で、結婚経験がなく、独身で即位した初めての女帝といわれている。
日本書紀は古事記のような序文はないが、天武天皇十年三月丙戌(十七日)の条に、天皇が大極殿にて川嶋皇子、忍壁皇子など皇族や有力氏族の十二名に詔して、“帝紀及び上古の諸事を記し定めしめしたまふ”とあり、書紀編纂の開始が示されている。また、『続日本紀』の元正天皇・養老四年五月癸酉の条で、“舎人親王は勅をうけて日本紀の編纂に従事していたが、紀三十巻、系圖一巻を奏上した”とあり、舎人親王が編纂の指揮をしていたことが解る。天武天皇には兄の天智天皇の皇女は姪になるが、皇女四人を、皇后とそれぞれを妃にしている。舎人親王はその天智の皇女・新田部皇女と天武天皇との皇子。天武天皇の三男となる。書紀が天武帝の皇位に就く正当性の記述に多く割いていると言われるゆえんだ。撰修には古事記献上の功績によってか、昇進した太安萬侶も加わっている。またこれも奇妙なことに、書紀に古事記についての記事はない。
日本書紀は官撰の国史である。編纂は国家的事業として行われた。だが、当時の先進国の中国に向けて国威と尊厳を示すためか、歴史の改変と潤色がなされていることが、戦前から指摘されている。書紀の信憑性を、干支による暦年構成の整合性が不明瞭なことで増幅させている。前回触れたが、書紀の編修者たちがわが国の歴史を古くみせるために、中国から伝えられた讖緯説に拠って建国の時期を過去へ引き上げたとする通説が、いまのところ一般的となっている。時間を過去に引き延ばしたことでか、初期の頃の十何人かの天皇の寿命が百歳を超えている。それをふくめ実在か架空かといった議論を生む。新羅本紀や百済新撰など海外の史書から解明しようとする『日本書紀の新年代解読』(學生社) の山本武夫教授や、春秋の半年を一年とする倍年説の『古代天皇長寿の謎』(六興出版) の貝田禎造氏など、研究者たちの意見もまちまちだ。
紀年法からみて二十六代・継体天皇からは正当な年代構成ができるとされる。継体以前の記述は中国の史書に倣い、干支に従ってではなく、出来事順に年代を当てはめて記載していく編年体で編纂しているため、固定した観点での解明は難しいようだ。実際のところ、神武天皇の即位は、紀元前六六〇年から大幅に引き返して二世紀の終り頃だろう。元伊勢伝説の出発点となる崇神・垂仁天皇の年代は四世紀初頭と思われる。今後、新たな年代解読法がいずれ解明されるだろう。
話は変わるが、四年ほど前、国立歴史民俗博物館は、AMS法と呼ばれる土器に付着した炭化物などによる新たな放射性炭素(C十四)年代測定法を発表した。これによって、縄文時代に後続するおよそ紀元前五世紀中頃から開始するとされていた弥生時代“早期”を繰り上げ、五百年遡って紀元前千年頃にすべきだという説が出た。早期の次の“前期”は五百年遡り紀元前八百年頃から、“中期”は二百年遡って紀元前四百年頃、“後期”が紀元五十年頃の始まりで、従来通り言われていた古墳時代の幕開けの三世紀中ごろまで続く。
この歴博の測定法に懐疑的な学者からは当然反論が出る。日本考古学協会の昨年の総会ではこの新説に異論が噴出し、賛否間に溝が生じたようだ。今後の研究で新たな見解が示されるだろうが、二十数年前までは弥生時代の開始は紀元前三世紀とされた。それがいつの間にか紀元前五世紀となった。いつかそれが前十世紀かそれに近い年代になるかも知れない。
(奈良 泰秀 H19年5月)