豊鍬入姫命に託された天照大神の御霊代は、倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)から巡幸の途に着き、最初に但波(丹波)の吉佐宮(よさのみや)に遷幸され、四年間斎き祀られる。そしてこの地から再び倭の国の伊豆加志本宮(いつかしのもとのみや)に遷られる。倭で八年間祀られ、次に、木(紀伊)の国の奈久佐浜宮(なくさはまのみや)に遷られ、三年の間、奉祀された。「紀伊国」は、単に「木国」だったが、奈良時代に国名は雅字二文字を用いるという勅令で改められたそうである。
奈久佐浜宮の比定地とされる処は前号に述べた、日前國懸(ひのくまくにかかす)神宮、濱宮神社、三船神社の三社である。この他に、伊太祁曽(いたきそ)神社も候補地に挙がっていたが、今回は除外した。式内社で名神大社の伊太祁曽神社は、垂仁天皇十六年に、日前・國懸両宮が祀られるということで自社の領地を譲ったという。紀の国の“国譲り”である。祭神は素戔嗚尊の子で樹木の神の五十猛命(いたけるのみこと)だが、天津神のために国を追われて遷宮させられた国津神だ、といった説話を眼にしたことがある。
この伊太祁曽神社には、正月中旬、小豆と白米、餅を煮立てた大釜に竹筒を沈め、その年の稲作や農作物の豊凶を占う粥占いの神事と、その翌日には、魔除け・厄除けの卯杖祭(うづえさい)がある。この祭りは年頭にあたって、土中の邪気を祓う梅の若枝を束ねて作った杖を神前に供えるという神事である。古くは宮中での神事でもあり、卯の日に行なわれることで卯杖祭となった。いまは途絶えたが、かつては神前で、舞踊の原型となる足法呪術の反閇(へんばい)が基と思える足を激しく踏み鳴らし、歌い舞うという踏歌神事も行なわれたようだ。
和歌浦湾に沿って名草の浜があり、南端には毛見崎がある。その毛見崎の北岸に濱宮神社がある。此処は日前・國懸神宮があった元宮の地とされる。紀ノ川の河口部にあって、干潟などで海岸線の変動もあったろうが、奈久佐浜宮の比定地としてはこの場所が最も有力地と思える。整然とした境内の日前國懸神宮から見ると、やや物足りなさを感じさせはする。摂社には小さな豊鍬入姫神社があった。
『先代旧事本紀』国造本紀に、神武天皇東征の後に天道根命(あめのみちねのみこと)が紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任じられた、とある。この天道根命が名草郡毛見郷の地に神鏡を奉祀したことが、日前國懸両宮の起源となる。その後、濱宮神社地の名草郡濱ノ宮に遷宮され、垂仁天皇の御世に、水害などで伊太祁曽神社が鎮座していた現在地へ遷座したという。
余談だが、紀伊国造家の始祖となる天道根命は、神皇産霊神の五世の孫にあたる。出雲・阿蘇・宇佐・隠岐・諏訪といった国造家も古いが、紀伊国造家は天皇家をも凌ぐ古い家柄なのである。日本書紀・景行天皇三年春の条に、 “爰(ここ)に(八代孝元天皇の孫となる)屋主忍男武男心命(やぬしおしをたけをこころのみこと)、(略)紀直(きのあたひ)の遠祖莵道彦(とほつおやうぢひこ)の女影媛(むすめかげひめ)を娶(めと)りて、武内宿彌を生ましむ。”とある。(古事記には、孝元天皇の御子・比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)が、木国造の祖・宇豆比古(うづひこ)の妹、山下影比売(かげひめ)を娶り、建内宿禰を生み、七男二女をもうけた、とある)この莵道彦(宇豆比古)は、天道根命より六代の孫となる。武内宿彌は十二代景行天皇から十六代仁徳天皇まで、五代に亘って天皇家に仕えた。一族で同名の襲名説もあるが、没年齢は二百八十歳とも三百六十歳とも云われ、紀氏を始め、蘇我・平群・波多・許勢・葛城などの中央豪族の祖ともなった。
のちに、地方豪族の土地領民の所有を禁じ、天皇中心の統一的な支配体制を構築しようとした大化の改新では、諸国の国造制は廃止となる。だが、出雲と紀伊のみは神事を管掌することで「国造」の職名を継承した。子孫の紀氏は日前國懸両宮の祭祀専任の他に、中世には武力をも蓄えた。戦国時代には秀吉との抗争で敗北を喫し、当時の国造職六十七代・紀忠雄は高野山に遁れたりしている。日前國懸宮は破壊され、復旧再建は紀州藩主となった徳川頼宣によって数十年後に行なわれた。平安中期と江戸の中期に継嗣を欠いたことで、傍系が血脈を繋ぎ現在に到っている。
朝廷が神階を授けなかった社は伊勢の神宮と日前國懸神宮だけである。前号で日前國懸宮は神社本庁に所属しない単立の宗教法人であると述べた。内務省外局の神祇院の事務を引き継ぎ、昭和二十一年に民間の宗教法人となったのが神社本庁である。日前國懸宮は、祭神のご正体が伊勢神宮と同格か又はそれに準ずると捉えることと、血統の歴史の重さで、民間の一宗教法人にすぎない神社本庁の傘下に組み込まれることを潔しとせず、孤高の単立法人を選択したものと筆者は思っている。
閑話休題。奈久佐浜宮の比定地として残る三船神社だが、紀の川市桃山町に所在する。この神社は崇神天皇の皇女・豊耜入日売(豊鍬入姫)命が創祀したと伝え、古来、安楽川に沿った集落の産土神として祀られて来た。紀伊国神名帳には正一位・御船大神の記載がある。社殿は、昭和四十九年に解体修復が為された国の重要文化財で、極彩色を施した華麗な桃山建築様式をいまに伝える三棟である。三間社(さんげんしゃ)流造(ながれづくり)の本殿には祭神に、木霊屋船神、太玉命、彦狭知命を祀る。摂社には丹生都比売命、高野御子神が祀られている。木霊屋船神は木の神である。古事記では布刀玉命、古語拾遺では天太玉命と表され、神事を掌る太玉命は忌部一族の祖神でもある。また彦狭知命は寸法を測る尺度の神、工匠の神で、紀伊忌部の祖神とされる。神武天皇の宮殿造営に要する木材を求めに来た忌部一族がこの地に留まり、祖神を祀ったとされるが、神武天皇の橿原宮建設には天太玉命の孫の天富命(あめのとみのみこと)が尽力している。摂社の祭神・丹生都比売命、高野御子神に就いては以前小欄で触れた。
さて、木の国の奈久佐浜宮で天照大神を三年の間、斎き奉った豊鍬入姫命は、再び巡幸の途に着く。『倭姫命世記』に謂う。
「五十四年丁丑(ひのとうし)、吉備の國の名方濱宮に遷り給ひ、四年斎き奉る。時に吉備の國造、采女吉備都比賣(うねめきびつひめ)、また地口の御田を進(たてまつ)る。」
豊鍬入姫命は天照大神を奉じ、吉備の国の名方浜宮に遷られ、ここで四年、奉祀することになる。吉備の国造が、土地神を祀る吉備都比売と御田を献上した。
『皇太神宮儀式帳』も『倭姫命世記』も天照大神の神威を掲げて各地を視て周る“国覓(くにま)ぎ”、巡幸記である。では、名方浜宮とは何処なのか。
比定地としては以下の八ヵ所とした。
(五)名方浜宮(なかたのはまのみや)(世記のみに記述)
① 伊勢部柿本神社 和歌山県海南市日方
② 国主神社跡地 和歌山県有田郡吉備町長田
③ 伊勢神社 岡山県岡山市番町
④ 穴門山神社(赤浜宮)岡山県高梁市川上町
⑤ 穴門山神社 岡山県倉敷市真備町妹
⑥ 神明神社 岡山県総社市福井
⑦ 内宮 岡山県岡山市浜野
⑧ 今伊勢内宮外宮 広島県福山市神村町鏡山
(奈良 泰秀 H19年7月)