『倭姫命世記』に拠るところの、豊鍬入姫命に託された天照大神の御霊代の、第五番目の遷祀先は“吉備の國の名方濱宮”である。名方浜宮の比定地とされる処は、木の国(紀伊)にも吉備の地名のあることで和歌山から岡山・広島と広範囲に亘る。
八ヵ所の比定地の一つ、岡山県総社市福井の⑥神明神社は、一キロほど離れた備中総社宮に※合祀されているという。跡地に神社の境内の風情はすでになく、入口の道も分からない畑の耕作地のなかにあった。僅かな土地に、数本の樹木と新しく建て替えた神殿と小さな古い拝殿が残されていた。備中風土記の逸文に“伊勢御神の社”の記述が見え、其処を名方浜宮とする説があり、それがこの場所にあった神明神社であるという。このように他所に合祀された神社跡に地元の氏子がかつての在りようを偲び、小祠を建立する例は多い。地元の人々の、心の故郷としての神社への想いを知らされる。関係者が新しくなったこの小さな社を守ることを、おなじ元伊勢伝承がある⑦内宮に伝えに来たと後に聞いた。
(※⑥神明神社、訂正事項 備中総社宮に合祀はされていないとのこと、近隣神社の神職が御神体の鏡を持っていかれた際、近隣の方々が備中総社宮に合祀されたと勘違いされていた。現在は代々、神明神社の祭祀を執り行っていた社家の血縁者が当地へ戻り神職となり、お守りしている。)
⑦内宮の所在地は岡山市の旭川河口に近い浜野で、天照大神を主祭神に倭姫命と大己貴命を併せて祀る。神社とか社の名称が付かない神社である。江戸時代の書物に“外宮は出石郡にあり。内宮は鹿田庄濱野村にありて式内の神なり。皇大神宮即ち是なり。”とあり、備前国内神名帳には従四位下の官位を記されている。
この神社は倭姫命世記の記事にある崇神五十四年、天照大神の吉備国名方浜宮への御遷幸の地は当社であるとして、伊勢神宮の創建に先立つこと四十年前に創始したとされる。鳥居の右手に伊勢皇大神宮御聖跡の碑がある。大正二年には付近の野々宮と日吉神社を合祀した。前に触れたが、この神社の宮司職に就いているのは母校の空手道部の後輩である。取材で訪れ、社務所に上がってのひと時、空手道部の想い出と元伊勢の話しで時を経つのを忘れてしまった。
名方浜宮の最後の比定地は、元伊勢伝承の比定地最西端と思える広島県福山市神村町鏡山の⑧今伊勢内宮外宮である。この神社はかつての備後国のエリアにある。旧県社で古くは伊勢神明宮とも称された。鳥居が建ち以前は参道のあった所を、車が多く行き交う国道二号線とそれに沿ったJR山陽本線が並んで横切っている。鉄道の踏み切りを渡ると、左右に「忠誠尊皇室」「孝敬事天神」と彫刻された二本の石柱が立っている。その先に鳥居が見え、背後の山の鏡山中腹まで急な勾配の石段が続いている。鳥居を過ぎすぐ左側には豊受皇大神を祀る外宮が、右側には、英霊の御霊を祀る護国神社がある。手摺りを備えた石段をのぼって行くと台地が開け、天照皇大神が鎮座する内宮の社殿がある。境内には荒祭宮・伊蘇宮・伊雑宮・恵美須神社・風宮といった伊勢の神宮の別宮に倣ったような小社が奉祀されている。内宮の社殿左手の細い坂道を辿っていくと多賀神社が祀られていた。
この神社は、十五世紀中頃に泉州境の神主が神示を受け、伊勢より天照大神を遷座させたという伝承がある。室町時代よりこの地方の名社として知られ、雨乞いや病気平癒などの祈願で藩主からも崇尊されたという。しかし社記に豊鍬入姫命や倭姫命にまつわる記事は無く、地方の書誌に此の地を、“吉備名方濱宮の霊地なり”とあるのみで、元伊勢伝承の根拠の希薄さも指摘されている。社名も出来過ぎといった識者もいる。
余談となるが、渡米して牧師となり後に神道に転向する酒井勝軍は日本国内のピラミッドを幾つも発見するが、この神社の境内となる山中の磐座の巨石を、“神代より奉安されたる御神体”として重大な関心を寄せたという。古史古伝フアンには興味を惹く神社だろう。
さて、大和から吉備に赴いた豊鍬入姫命は、なに故か吉備から三度めとなる大和への帰還を果たすのである。そのような記述は世記を除いて他の文献には見当たらない。
世記に、「五十八年辛巳(かのとみ)、倭の彌和(みわ)の御室嶺上宮(みむろのみねかみのみや)に還りたまひ、二年斎き奉る。この時、豊鍬入姫命、“吾日(ひ)足(た)りぬ”と白(の)りたまひき。その時、姪倭比売命(いもやまとひめのみこと)に事依(ことよ)さし奉り、御杖代(みつえしろ)と定めて、此より倭姫命、天照太神を戴き奉りて行幸(みゆき)す」(五十八年辛巳、倭の弥和の御室嶺上宮にお還りになり、二年間斎き奉られた。この時、豊鍬入姫命は、“私は奉斎の日数を重ねた”と仰せになった。そして姪の倭比売命(倭姫命)にご委任され大神の御杖代と定め、これ以後、倭姫命は天照大神を戴き奉り、御心に叶う地を求めて行幸されることになった)とある。
これは世記のみに現れる記述である。世記は日本書紀の記事を転用し、崇神天皇六年に天照大神の御杖代(斎王)の役目を豊鍬入姫命に託し、御霊代の神鏡を(一)倭の笠縫邑に祀った、とする。さらに世記は笠縫邑に草薙剣をも遷祀したとしている。そして世記独自の内容で、それから三十三年後の崇神三十九年に、(二)但波・吉佐宮に遷幸して四年。四十三年に、(三)倭の伊豆加志本宮に還り八年。五十一年、(四)木乃国・奈久佐濱宮で三年。(五)吉備・名方濱宮で四年。そして崇神天皇五十八年に、(六)倭の弥和の御室嶺上宮に遷り二年、斎き奉っている。この二年の間に豊鍬入姫命は姪の倭姫命を呼び寄せ、“吾日足りぬ”と、奉仕の日数を重ねて年を取りすぎたことを語り、任務の継承を委任したのだろう。
豊鍬入姫命は倭の弥和での二年の務めを加えれば、約五十四年に亘り大神を奉斎したことになる。豊鍬入姫命と交替した倭姫命は、伊勢へ到るまでの新たな長い旅に出発するのである。
伊勢神宮の由緒・恒例行事・神宝細目・宮域などを二十三条に亘って記した『皇大神宮儀式帳』がある。世記はこの儀式帳からも多くを転用している。倭の弥和とは、儀式帳では遷幸へ旅立つ倭姫命のスタート地点となる「美和乃御諸原(みわのみもろはら)」として顕れる。
日本書紀には豊鍬入姫命に笠縫邑で大神を祀らせ三ヵ所を廻るという以外に、儀式帳や世記にあるような数多くの遷幸の記事は無い。豊鍬入姫命と倭姫命の交代は、垂仁天皇二十五年三月、“天照大神を豊鍬入姫命より離(はな)ちまつりて倭姫命に託(つ)けたまふ”とある。書紀では、崇神天皇は六十八年の冬に百二十歳で崩じたとされる。とすれば、崇神朝で遷祀した六年から六十八年までの六十二年間と、垂仁朝での二十五年を合わせた八十七年間が、豊鍬入姫命が天照大神を奉斎した期間となる。
そのようにして倭姫命は豊鍬入姫命から天照大神の御杖代としての任務を継ぎ、新たな遷幸を開始する。では、豊鍬入姫命が倭姫命に後事を託した倭の弥和の御室嶺上宮、儀式帳で謂う美和乃御諸原とは何処なのか。
倭の弥和とは「大和の三輪」、御室(おむろ)・御諸(おもろ)とは神の降臨する山で三輪山、嶺上宮とは三輪山の山の頂を表している。
(奈良 泰秀 H19年9月)