平原遺跡出土の日本最大の銅鏡

 

昭和六十一年十一月、檜原神社境内に小祠であるが「豊鍬入姫宮」が建立された。大神神社の氏子で三輪山を仰ぎ見て育った樋口清之先生は、地元の遺跡から出土した重要文化財級と思える鏡を、その際に奉納されている。この豊鍬入姫宮建立に到るまでの経緯は後ほど述べる。檜原神社は、崇神天皇が皇女の豊鍬入姫命に託し、宮中以外の場所で、天照大神を初めて奉祀した場所とされる笠縫邑跡の最有力地であることは前に触れた。

檜原神社の近くには古墳が幾つも点在している。三輪山の北西に在って、古墳時代前期に栄えた最大規模集落の纒向遺跡の、南東端に位置するのが「ホケノ山古墳」である。大神神社では、ホケノ山古墳を豊鍬入姫命の御陵と比定している。

ホケノ古墳から紀元一世紀頃に制作された舶載鏡が出土した。舶載鏡とは中国や朝鮮半島から日本に持ち込まれた鏡のことである。これを樋口先生が取得されていた。ホケノ山古墳出土の鏡は中国製で、子孫の末長い繁栄を願う「長宜子孫」の四字銘が刻まれた直径二十三センチの大型の内行(ないこう)花文鏡(かもんきょう)である。樋口先生はこの鏡をどのような経緯で入手されたかは不明だが、それを創建を見た豊鍬入姫宮に奉納された。

内行花文鏡の制作は、中国の後漢(西暦二五年~二二〇年)時代を起源とする。わが国では弥生時代の墳丘墓や古墳などから多く出土している。この鏡は背面の円形の図柄中央に葉模様状を配置する。それに幾何学模様とも思える半円弧形を等間隔に連ねた文様を連弧文と謂い、それらが花びらを巡らせたように見えるところからその名がある。ちなみに魏志倭人伝に記された伊都国と比定されている福岡県前原市の平原(ひらばる)遺跡からは、直径四十六・五センチもの超大型の内行花文鏡が、副葬品として五枚も発見されている。当時では世界最大級というこの銅鏡は、舶載鏡ではなく、日本で造られたいわゆる倭鏡である。

九州北部の平原遺跡は弥生時代後期の築造と推定され、伊都国の王墓と思われる墳墓遺跡である。この遺跡は昭和四十年に作業中のミカン畑から偶然に発見された。副葬品の多さは群を抜いており、武器類が少なく、装飾具が多いことで被葬者は女性の王、女王と思われている。邪馬台国・九州北部説は、神功皇后を卑弥呼とする新井白石、天照大神・卑弥呼説の和辻哲朗、卑弥呼・巫女説の松本清張まで支持者が多い。平原墳墓の被葬者を卑弥呼とする説もまた多い。昨年六月には、この超大型の内行花文鏡をメインとして他の出土品と共に国宝の指定を受けた。古代鏡には舶載鏡、倭鏡、渡来した工人が中国のものを真似て作った仿製鏡(ぼうせいきょう)の三種類ある。

この超大型倭鏡は、描かれた八葉の文様とそれを巡る八個の花文の連弧文などから、伊勢神宮の八咫鏡との共通性が指摘されている。伊勢神宮に鎮まる天照大神の御霊代の神鏡は、豊鍬入姫命と倭姫命によって巡幸する各地で奉斎され、最後に伊勢国に祠を立てられて鎮座された。平原遺跡の大鏡は重量が約八キロあるそうだが、神宮のご正体の八咫鏡が同様のものであれば、豊鍬入姫も倭姫もかなりの労力を使われたことだろう。

天照大神を鎮座させた倭姫命が伊勢に祀られたのは非常に新しい。「倭姫宮」は、伊勢神宮別宮として大正十二年十一月に、内宮と外宮の中間地点にある倉田山に建立された。当時、神宮司庁や地元の宇治山田市から倭姫を祀る神社建立の機運が盛り上がったようだ。神宮では唯一の近代以降に創建された神社である。

豊鍬入姫宮(檜原神社内)

これに引き換え、豊鍬入姫命についてはそのような時機に到ってはいなかった。豊鍬入姫宮建立の端緒は、九州大分に在住する五十前後の中年女性への霊示からだという。ある日突然、豊鍬入姫がこの女性に神懸かった。それにより彼女は豊鍬入姫を祀ることを決意する。神宮司庁や神宮文庫に連絡してみるが、全国で豊鍬入姫命を祀る神社は皆無だという。祀るのであれば大神神社であろうという伊勢からの助言もあった。大神神社への働きかけと神社側の理解を得て紆余曲折の末、冒頭のように昭和六十一年に豊鍬入姫宮の創始をみた。郷里を愛する樋口先生には秘蔵の内行花文鏡を奉納するのは当然のことだったようだ。先生はこの他にも“三輪山山の神祭祀遺跡”からの出土品を大神神社に奉納されている。

前回、樋口先生は、大神神社の磐座がチタン鉄鉱や磁鉄鉱を含んだ班糲(はんれい)岩石であることを指摘され、この鉄鉱成分が砂鉄と同じ製鉄の原料となり精錬されて鉄製品となる、と謂われたことを述べた。鉄精錬が古代三輪族を繁栄させたものとも思えるが、しかし、三輪山で製鉄は行われなかった、とする説もある。

大神神社では一月と七月の年二回、「大美和」という社誌を発行している。一〇八号誌に、桜井市教育委員会に在籍される清水眞一氏が、「なぜ三輪山で、鉄作りは行われなかったのか」なる一文を寄稿している。“製鉄”と“鍛冶”とは別で、製鉄とは鉄の素材を作り、鍛冶は鉄を加工製作すること謂う。大集落の纒向遺跡からは、鉄作り跡を示す鉄滓やふいご口(羽口)など、発見される量はそれほどでもなく、出土地点も僅か五ヵ所程度だという。古墳を除けば、作られた鉄製品が豊富にあったとは云い難い状況で、纒向遺跡の大集落が作られてしばらく経ち、其処へよそから鍛冶集団がやって来たと考えるべきだとしている。古代のたたら製鉄は後世に引き継がれていく。精錬を行なうためには砂鉄・鉄鉱一に対し、木炭が百以上の単位で必要になる。三日三晩炭を焚いて高温を保ち鉱石を溶かすことで、一回のたたら製鉄で一ヘクタールの土地の樹木を炭にした量を使用する。それを年に四、五回行なうと、三輪山全体の樹木を切り炭に変えても不足になるほどの量を消費する。それを毎年続けていたならば、五年か十年で大和青垣の山々の樹木はすべて切り尽くされていた、といわれる。

三輪山を削り、木炭用に樹木を伐採すれば、大雨の洪水であっという間に大和平野の美田は泥田と化してしまうことを、古代人は充分知っていた。三世紀から八世紀の末まで都として栄えた大和平野を守るために、三輪山での製鉄は行われなかった。当時、日本は朝鮮半島の南部から鉄の素材を輸入していたものと思われ、それを墳墓に埋納した権力者の力が察せられる、といわれている。

樋口先生が説かれたように三輪山で製鉄が行われていたのか、市立埋蔵文化財センターに勤務される清水氏が地道に遺跡の出土品を調べていった結果、それはなかったとする説の、どちらを採り上げるかは即断できない。

三輪山は太古より人々に崇尊の念をもって仰がれて来た。神霊の鎮まる神秘に満ちた深い森の神奈備山は、これからも信仰の対象として、在り続けるだろう。

(奈良 泰秀  H19年10月)