早春の梅

手紙の冒頭で、「立春とは名ばかりのきびしい寒さですが…」といった時候のあいさつを見受けます。二月は、暦の上では春ですが、まだ寒さが身にしみる季節です。しかし陰暦の名称の如月は、陽気が良くなりつつも寒さが残り、衣(きぬ)を更に着るので「衣更着(きさらぎ)」、時気が更に発達して来る「気更来(きさらき)」、春に向かい草木が更に芽吹き始める「生更来(きさらき)」、などの意味があるといわれます。新暦では寒い二月も陰暦の二月は現在の三月頃ですから、そのような表現も的(まと)を得ております。

日本で現在の太陽暦の使用開始は明治六年からで、それまでの基本は月の満ち欠けで日を読む暦法でした。でも、月が基準では日付と季節とのずれが生じます。そこで正確な季節をあらわす指標として考え出されたのが、太陽の運行を基に一年の長さを二十四等分した二十四節気です。

二十四の節気は年毎に微妙に違いますが、その季節にふさわしい春分、夏至、秋分、冬至といった名称を付け、日付と季節とを一致させました。

新暦に切り替えて百四十年近くたった現在でも、陰暦での祭りや行事を見かけます。易学では、二月三日まで生まれた人は前年の干支で占われるように、いまも陰暦が生きています。

陰暦は、季節を的確に捉えていることで自然暦ともいわれ、季節に重きをおいた暦に慣れ親しんできた日本人の体質は、まだまだ変わらないようです。

さて、立春の前日が節分です。節分は四季を分ける日で、かつては立春、立夏、立秋、立冬の四回ありました。それが立春から年が始まるという考え方から、いつの間にか節分といえば年が変わる春の節分になりました。すると節分が一年最後の大晦日になります。

“豆まき”の行事は中国から伝わった追儺(ついな)の儀式と、平安時代に行われていた方違(かたたが)えの豆打ちに由来します。追儺は「鬼やらい」「鬼走り」「厄落とし」などと呼ばれます。中国では二千年以上も前から季節の変わり目に疫病や災害、邪気をもたらす鬼を追い払う儀式があり、八世紀初めに遣唐使が日本に伝えました。

京都・吉田神社の追儺式風景 (吉田神社提供)

疫病の大流行で多くの死者が出たので、ときの文武天皇がこの儀式を行ったと言われます。宮中で、金色の四つ目の面を付け矛や盾で鬼を追う方相氏(ほうそうし)という役の人が、災厄を身に付けたことで桃の弓や葦の矢で追われるという儀式でした。それがいつの間にか方相氏が追われる鬼に変化しました。

方違えの豆打ちとは、立春を迎えるのにあたり、節分の日に翌年の恵方に行って一夜宿泊し、邪気を避けるという陰陽道の行事でした。それが簡略化され、家の恵方の部屋に移って一夜を過ごし、その前に霊力が籠るとされる豆を撒いて邪気を祓うようになったのです。

また平安時代に、鞍馬の山奥に住む鬼が大豆で目を潰され退治されたという故事がありました。魔の目が滅する=魔滅(まめ)に通ずるので豆を撒く、撒く豆を炒るのは、魔目(豆)を射る、に通ずるという説もあります。

宮中の祭事が陰陽道と習合して民間行事となった例はいくつかありますが、節分もその典型です。室町時代には現在のような豆撒きが行われ、江戸時代に、とげのある柊の木に鰯の頭を刺して門や軒下に吊るし、臭気で邪気の侵入を防ぐという“焼嗅(やいか)がし”の風習と共に各地に拡がりました。

節分祭は各地の社寺で行われ、京都の吉田神社は室町時代の宮中行事を伝えています。鬼が幸せをもたらすとして燃える大松明を振りかざし、人々の災厄を祓う奈良五条市・念仏寺の火祭りは五百年の伝統があり、国の重要無形民族文化財の指定も受けています。

最近では、大阪の海苔問屋の組合が、恵方に向かい、私語せず太巻き寿司を丸ごと食べる、という行事を始めました。この行事も半世紀も続けば一つの風習として語られます。

節分は、冬ごもりの暗い気分を一掃し、希望にあふれる春を迎えたいという庶民の願いが一つの習俗になったと言えます。

また、二月最初の午(うま)の日に、全国的に稲荷社を祀る初午の行事があります。これは農作物の豊作祈願が稲荷信仰と結びついたお祭りです。

(奈良 泰秀 2009年2月)