伊勢神宮(外宮)勾玉池

 既に昨年のこととなるが、十一月中旬、伊勢の神宮で開催された第五回「まがたま祭」に私共の研究会も参加した。この「まがたま祭」を主催するのは、平成9年より神宮司庁の公認奉賛団体となった「伊勢神宮勾玉会」である。

 勾玉会の活動は、外宮・内宮の環境保全と整備を通して神宮の弥栄に寄与するとし、特に近年、参拝者の減少傾向にある外宮の興隆を目指し、外宮勾玉池の整備、奉納舞台等の施設、勾玉会館の建設などを謳っている。

 少宮司も臨席される勾玉池畔での奉納行事等の「まがたま祭」前日に、前夜祭が鳥羽市内のホテルで行なわれた。これには神宮関係者、伊勢市長、伊勢市議会議長始め奉賛団体代表など全国から百数十名が出席されたが、ご指名を受け、参加の関係団体を代表しご挨拶をさせていただく機会を得た。ここで、いま神社界では、次回のご遷宮は無理ではないかといった声が密かに囁かれている、だが、日本人の精神的規範の原点とも言うべき神宮の遷宮が、遅延するようなことがあってはならない、これを国民運動として盛り上げていくべきではないか、といったことを述べて締め括った。

 その後、懇親会にはいり、初対面ではあったが同席した神宮司庁幹部と、過日、神社本庁がマスコミ関係各社と行なった懇談会のことが話題となった。この懇談会の詳細は既に他より聞いてはいたが、内容としては、神宮の重な祭儀に合わせて主要マスコミ関係者を招き、直接祭祀を体感し、その歴史や文化について懇談するという趣旨で、三回に分けて新聞、テレビ、雑誌社などに呼びかけを行なったということであった。更に開催通知には、平成二十五年に斎行する第六十二回の式年遷宮にも触れており、遷宮の折り返し時点に来たいま、マスコミを通して社会に向けて、その認識を惹起して貰おうという意図が見てとれた。もとより遷宮は二十年に一度の神宮最大重儀で、約十年近い周到な準備を経て遂行される。

 しかし、神宮司庁と神社新報社の協力を得て行なったこの企画も、賛同して第一回目の懇談会に参加したのは、僅か七、八社のみだったようだ。時代の趨勢としていまの社会は、伝統や文化についてあまり眼を向けようとしない。例えこのような呼びかけがあったとしても、マスコミ側には神社界のことを積極的に取り上げる姿勢が見られないのであろう。

 ここにひとつ疑問に思うことがある。このようなマスコミ関係者を呼ぶ前に、神宮を崇敬し、これまでの遷宮に協力をしてきた新宗教系教団の機関紙や出版物の担当記者を、なぜ始めに呼ばないのだろうか。神宮に熱い想いを寄せ、崇尊する教団は数多い。仏教系だが佛所護念会は教団設立時から毎年神宮参拝を行ない、二度の遷宮を奉賛している。知り合いにここの熱心な信徒がいるが、三度の食事を二度にしてもご遷宮のために積み立てをさせていただいております、という言葉を聞いた。同じく、戦前から毎年神宮参拝を教団行事とする解脱会も、また然り。一般大衆を信者に持つ神宮崇敬教団が実に多いことを、神社本庁を始め関係者の皆さんは、いま一度考え直すべきだと思う。

 いや、お話しは眼からウロコです、とは神宮幹部の言葉だが、大衆の熱意を集めてこそ斎行される遷宮なのではないだろうか。

 この神宮の式年遷宮の歴史は千三百年の永きに亘る。天武天皇のご遺志を継いだ皇后・持統天皇により持統四年(690)、内宮の第一回式年遷宮が行なわれた。現在は内宮・外宮の両宮が同時に斎行されているが、これは近世に入った第四十一回、天正十三年(1585)以降のことである。当初から約九百年近くは、外宮は二年遅れて斎行される制が守られてきた。また、遷宮の二十年という周期が制度化されたのは、江戸期の寛永六年(1629)第四十三回からで、室町期の戦乱で百三十年近くの中断や若干の変動もあるが、それまでは凡そ十九年周期で斎行されて来ている。    

 この二十年という周期は、建物の寿命となる期限、また、稲の貯蔵限度といった見方がある。神々がお鎮まりになる社殿を始め、ご神宝や調度品のご装束に到るまで新たに調え、そこへご神霊にお遷り願うことは、取りも直さず、古代から伝えられる伝統様式に、新たな若い息吹と躍動する生命力を與えることに他ならない。

 ここに古代から現代に伝承される我々の祖先の叡智を見ることが出来る。海外のひと達に神道の理念を説くことは、非常に難しいとよく言われる。だが、清浄さと、常に瑞々しい精神を甦らせる永遠性を失わないことが、繰り返される遷宮の持つ意義であることを伝えることで、神道のこころを理解させることになるのではないだろうか。

(奈良 泰秀  H16年1月)