四月は春たけなわ、国中の花々の大部分が一斉に咲き乱れ、自然が華やぐとき。陽光の明るさが増し、人のこころも活動的になります。年度始めの月で、入学や入社や転勤など、新しい門出となる月です。四月の陰暦月名は卯月。陰暦十二ヵ月で花の名がついた唯一の月です。卯の花が咲く月という意味で、卯花月(うのはなづき)とも言います。
卯の花は晩春に白い花を咲かせますが、稲の苗や農作物の種を植えるので、植え月が“うづき”になったという説があります。卯月はいまの五月ごろで、ほかに乾月(けんげつ)、花残月(はなのこりづき)、夏初月(なつはづき)の別称もあります。花残月とは、山あいにまだ桜の花が咲き残る月のことです。
そして四月八日はお釈迦さまの誕生を祝う花祭り、潅仏会(かんぶつえ)があります。降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、ともいい、関西など地方によっては旧暦の日取りで行ないます。
上弦の月が出る旧暦のこの日には、集落の人々がこぞって飲食物を持って山や丘に登り、祓(はらえ)を行ない山の神や祖霊にお供物をし、共に食事をして里に迎える習慣もありました。これを“春山入り”と言い、旧暦では桜の花が散ったこの時期、山で摘んだツツジや石楠花(しゃくなげ)の花を長い竹の先につけ、依り代として庭先に立てて山の神を迎えます。山の神は田の神や農神(のうがみ)・作神(さくがみ)となり、秋には収穫を見届け、また山に帰っていきます。これがのちに農耕開始にあたって山の神を迎えての「田遊び」という豊作祈願の御田植え神事や春祭りとなります。三百を超える神楽や郷土芸能など、伝統的な神事や風習がいまも各地で見られます。
この春山入りがお花見の原型で、昔から桜は穀類の神が宿る神聖な樹木とされました。しかし奈良時代に遣唐使が中国から伝えたのは、梅林での花見です。中国の文化や習慣を積極的に取り入れていた時代ですからお花見も梅で、万葉集にも梅を詠んだ歌が桜の三倍もあります。梅は桜にくらべて花の咲いている時期が長く、色もきれいで香りもよく、実もなるので好まれました。平安時代に遣唐使が廃止されると、宮中で行われていた観梅の宴も、次第に日本人の心情にフィットする桜へと変わっていきます。そして江戸時代の中ごろから現在のような花見になりました。
さて、お釈迦さまは紀元前五世紀の頃、ヒマラヤ山麓の中部ネパールで釈迦族の王子として生まれます。二十九歳で出家して三十五歳で悟りを得、真理に目覚めた者・仏陀(ブッダ)となり、以後は教化の旅を続け八十歳で入滅(にゅうめつ・死去)します。
潅仏会は古くからインドでも盛んに行なわれています。日本では日本書紀に、女帝・推古天皇の時代に寺ごとに斎会すると記されていますが、実際の起源は平安時代初期のようです。のちに宮中の行事にもなり、花祭りと呼ぶようになったのは明治時代からです。潅仏会は、屋根を花で飾った小堂の花御堂を設(しつら)え、その中に浴仏盤という水盤を甘茶で満たし、それに金属製の半裸像の誕生仏を安置し、竹の柄杓で甘茶をすくい頭上から像にそそぎます。花御堂はお釈迦さまが産まれたルンビニの花園を表し、甘茶をそそぐのは誕生を祝う梵天(ぼんてん)と帝釈天(たいしゃくてん)が甘露を雨のように降らせて産湯としてつかわせた伝説や、天の龍が香湯をそそいだ故事によります。お釈迦さまの母が白い象が体内に入る夢をみて懐妊したので、白象の置物なども並べます。
日本の花祭りは、五穀豊穣を祝い願う春の予祝(よしゅく)行事と習合したと言われます。長い冬から目覚め、一斉に咲き艶やかに儚(はかな)く散る桜に、先祖は自らの心性を重ね合わせたのでしょう。
四月は各地に桜の花の祭りがあります。和歌山県の丹生都比売神社では、神前に桜花を供え、神職や参列者も冠や胸に桜の小枝を着けます。滋賀の長等神社では神前に桜と歌、奈良の水谷神社では桜と狂言、栃木・二荒山神社では神輿に桜の枝を積んだ花屋体、宮城の塩竃神社では境内の貴重な品種の桜にちなんだ花祭りがあります。また花が散るころ、疫病神が花びらに付いて飛び散るのを鎮める鎮花祭(はなしずめのまつり)もあります。奈良の大神神社の神事は千三百年も前のもの。一度、春の神社を訪ねてみてはいかがですか。
(奈良 泰秀 2009年4月)