私共の研究会は“伝統文化と新しい文明の研究機構”を謳っている。活動の一環として二ヵ月に一度セミナーを開催しているが、間口の広い謳い文句に、これならどのようなこともテーマに出来ますね、と言われたりもする。毎回題材選びには苦労するが、いまは、“時代は何を求めているか”に気を配り、そのなかで伝統文化をどのように次の世代に伝えていくか、にウエイトを置いている。組織も資金も満足でなくやり繰りが大変だが、それでも現在まで招いた講師の方は六十名近い。九十九歳で未だ現役でおられる中西 旭氏や清水馨八郎といった棋界の長老を始め、松本健一氏、大原康男氏、島田裕巳氏、藤井正雄氏といった方々にもそれぞれの立場で専門分野の講演をして頂いた。これらの先生方のお話しは当然オーソドックスであり、テーマに興味を持って聴きに来られる方々も、当然オーソドックスな態度で聴かれ、帰られる。
だが会場にある種、独特な雰囲気を醸し出すテーマがある。それは「古史古伝」である。このジャンルのオーソリティ佐治芳彦氏を招き二回の講演会を開催したが、二回とも予想以上の入場希望者にスタッフは椅子や資料の追加の対応に追われた。質疑応答にも時間を取られ、終了時間が大幅に延長させられた。
この古史古伝についての世間の知識はマニアックな情報と、佐治芳彦氏が出されて来た一連のベストセラーに負うところが大きい。
もとより古史古伝の類いはアカデミズムからはまったく無視され、研究の対象とはされていない。“捏造による文書・遺物、或いは信頼できない論拠に基づいて非科学的な方法論で組み立てられた、アカデミズムからは相手にされない虚構の歴史、または学説”といった定義づけがなされていたりする。だが、荒唐無稽とされていてもそこに遥かな超古代へのロマンと郷愁を感じるのか、何故かフアンも多い。市民権を得ているとは云えないこの古史古伝に寄せるフアンの想いは、判官贔屓に一脈通ずるものを感じさせる。
この古史古伝の代表的なものをかつて超古代史研究の吾郷清彦氏は「古史・三書」として『竹内文書』『宮下文書』『九鬼文書』を挙げ、「古伝・三書」として『秀真伝(ほつまつたえ)』『上記(うえつふみ)』『三笠文(みかさふみ)』を挙げる分け方をした。その後いつの間にか古史に『物部文書』、古伝に『カタカムナ』を加えてそれぞれ「古史・四書」「古伝・四書」としている。このほかに、「異録・四書」として『東日流外三郡誌』や『但馬故事記』などを挙げる分類の仕方がされている。
このうち『竹内文書』は、武内宿禰の末裔を称する富山県婦負郡の竹内家の養子で、第六十六代を継承したとされる巨麿師により明治四十三年、茨城県磯原の地に開かれた教派神道系の皇祖皇太神宮天津教由来の神宝類と約三千葉の文書、史書資料などを指している。
それは武内宿禰の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が勅命を受け、天地創生以来の伝承を神代文字で記された文書を漢字かな混り文に書き換えたもの、と謂われている。そこには天地開闢から神武朝まで世界の首都は越中国富山にあり、天神七代、上古二十五代、不合朝七十三代の天皇の事跡が抜粋して記されている。上古二代の天皇は黄・赤・青・黒・白といった五色人の人種の皇子や皇女を生み、世界各地に派遣し各国の首長とした。その後の代々の天皇は天空浮船に乗り万国を巡幸された。また、モーゼや孔子、孟子、キリスト、釈迦、モハメッドといった世界の聖人たちが日本に来て学び、修行をして帰っている。
このような記述に彩られた『竹内文書』は大正の末頃から昭和初期にかけて公表されるが、昭和五年十二月に突然巨麿師は警視庁で取り調べを受け、布教活動の制限を言い渡されている。その二年後、今度は特高警察に拘引され、神社の鳥居の撤去や神宝の拝観禁止の処置が取られる。更に昭和十一年二月、巨麿師は逮捕され、神宝や文書類は押収されてしまう。これが宗教弾圧として世に知られた〝天津教事件〟である。併せて当時のマスコミの一部が弾劾誹謗の論調を展開し、京都帝大の狩野亨吉博士が文献類を偽書と断定した論文を発表して天津教は壊滅的打撃を受ける。
現在の皇祖皇太神宮の管長は第六十八代を継ぐ年齢が未だ四十代の竹内康裕氏である。私共のセミナーや祭事にも参加され、二次会で膝を接し酒を飲み相談ごとなども話す仲だが、昭和十六年から始まった裁判で祖父巨麿が三年後に最高裁で無罪を勝ち取った話しや、終戦の年の東京大空襲で押収された膨大な文書や神宝類が灰燼に帰した話しに及ぶことがある。次回はもう少しこれに就いて触れたい。
(奈良 泰秀 H16年4月)