季節の花を愛で、これをいける楽しみを覚えてから十数年が経つ。私が主宰する「にっぽん文明研究所」ではアドバイザーを招いて華道講座を開催している。華道といえば誰もがほぼ「何流ですか?」と尋ねる。
私共は特定の流派や組織とは一切関係なく、流儀花の型に嵌められた花ではない。従って免状も階級もない。“花に親しみ、自分の個性や感性を花に託し、自らの精神世界を確立する花の講座―”と答えるが、相手は判ったような判らないような曖昧な表情で見返す。“流儀で決められた型でいけるのではなく、日本のはっきりした四季の自然を、自由に、創造的に、個性的にいける投入れの花…”と言えば少しは納得して頂ける。
今日では、なげいれ=入れる花、いけばな=いける花、といった形で二分されるが、更に花のあるべき姿を様式美的に分類すれば、立華、生花、投入(茶花)、文人花、盛花、自由花といった種類に分けられる。紙面の都合上その説明は次の機会に譲るが、私共の花は、豊かな四季の自然を自由にいける投げ入れの花ではあるが、流儀の約束ごとも免状とも無関係という事で、ただ楽しむため勝手に活けて良い、ということではない。いける為の基本的な約束ごとはある。どのような花をいけるにしても、自然界の秩序から得た活け方、時、背景となる場所、器などがそれなりの意味を持ってくる。花をいける目的は、楽しむ花、もてなす花、型を決めた花、捧げる花などさまざまだが、いずれの場合であってもこの花をいける心とは、即ち花と心を通わせることでもある。
一神教を信奉する西洋世界を物質文明という捉え方をするが、ここでは花に就いて、華麗さや、機能的な装飾美といった点を強調する。一方、東洋世界での精神文明の範疇に帰属する我々日本人の先祖は、花の美しさに生命と心を与え、敬いの心や儚さ、もののあはれといった情緒的な捉え方をしてきた。そこには自然の中に神が宿り、磐境や常緑樹を神籬(ひもろぎ)とし、草花をも神が降臨される依代とする思想が根底にあった。
今から千二百年以上も前に成立した最古の歌集『万葉集』には、その成立から更に四百年も遡って詠まれた歌を始め、天皇から名も無い一般庶民の男女が作者となり、約四千五百首もの歌が記されている。そこには萩や梅などを始め、百六十種を超える草花が歌のなかに詠み込まれている。当時の人々が如何に四季の移ろいに気を配り、自然の大地に心を寄せていたかが読み取れる。その季節に咲き乱れる色とりどりの花に神の存在を感じ、なんら技巧を施すことなく、大らかに有るがままの花姿を愛で、想いを託している。
『万葉集』が成ったときと同じ頃行なわれた東大寺の大仏開眼供養には、蓮池が用いられたと言われている。仏教が伝えられ、日本という土壌に根を下ろしたことで、仏前に花を供えるという行事と、太古からの依代思想が除々に習合し、花をいけるというひとつの形式を創っていったことは、当然の帰着かもしれない。
もとより日本の伝統文化は「型」の文化として捉えられている。
私は学生時代空手道部に籍を置き、現在も十数年に亘ってOB会の事務局長を務めているが、空手の稽古は「型」に始まり「型」に終わると教えられた。この基礎となる「型」を実戦の自由組手に摂り入れ、気を集中して巻藁を突き、やがてひとり無心に突きや蹴りを重ねて技を磨き、精神を昂めていく。この理論に基づいた「型」に規範を求めて動きを完成させることは、誰もが修練により可能といえるが、「型」から入って得るべきものは「心」である。精神の涵養こそが「型」に求められるものである。
いけ花は室町期に、型=様式として神仏に捧げ奉る“立て花”が創造されて成立した。以後、現代まで時代の変遷と共にさまざまな様式の変化を見るが、根底にある花を依代として見ていける精神性は、変わることなく普遍性で貫かれている。
この“立て花”は花の形の在るべき姿を徹底的に追求された結果出来上がった「型」の根本になるものである。私共の投入れの花は、この「型」の花の対極にある。空手道の例を引き合いに出すまででもないが、有るがままの花の良さを引き出し、どの様な表情を与えるかは、それをいける者の心の在り方に依る。いけた花には、それをいけたひとの品性そのものが表れる。花の技を磨くことは、品性を高めることだ。
「型」は時代と共に変化をする。かつて花は男に依っていけられていたが、十八世紀に入り、庶民の生活に浸透したことで女性の芸事となっていった。いけばなは様々な流派を出現させ、現在に受け継がれている。また、いけばなは、仏教の供花の習慣と日本古来からの依代思想が合体して形作られて来たと述べたが、供花にウエイトが置かれたことで仏教への関わり度が高い。伝来後の仏教と神道との力関係にも似ているとも言えるが、供花を「型」とするなら依代を「心」と見たい。
私は何年か前から、家の床の間にあって“自然の全宇宙を表現する立て花”が原点とする神籬(ひもろぎ)をかたちにしての“神籬華道”の創設を模索し、確立を目指して来た。或いは、このような事に取り組まれておられる方が居てもいいように思うのだが、いま迄仄聞(そくぶん)することも無かった。どなたか、このことでの情報をお持ちなら、是非ともお聞かせ願いたい。
花は、儚い故に美しい。霊力を得て甦りを願うのは神道の理念だが、摘み取ることで一度花に終焉を与え、處と器といけるひとの想いで新しい生命が甦える。真剣に思えば身が引き締まるが、同時に、生命を再生させる醍醐味を味わえる。
華道に就いて、神道サイドからもう少し意見があって良いように思えるが如何なものか。
(奈良 泰秀 H16年7月)