この頃、規模の大小は別にして講演会やセミナーにお招きを受けることが多い。発言の場の雰囲気に応じてTシャツにジーンズで出かける場合もあれば、白衣に袴の神職スタイルのときもある。たまに自己紹介のとき「昔ピッピ-、いま神主の変り種です」と言うと一様におや?、といった顔つきをする。
かつて、“正義なき”といわれた戦争がベトナムで拡大されつつあった 67年頃から、アメリカの若者たちの間からひとつの運動が興り、世界中に拡がっていった。ニューエイジと言われた年層のなかで創り出され、アメリカ西海岸を起源とするカウンター・カルチャーに包含されるヒッピー・ムーヴメントである。このピッピ-が愛と平和の象徴として花で身体を飾りフラワー・チルドレンとも呼ばれたが、私が華道講座で和の花などに拘っているのも、そのことが原因なのかも知れない。
“ピッピ-”が死語になって久しい。そしてこのピッピ-を語るとき、ベトナム戦争を抜きにしては語れない。
フランスから肩代わりしてアメリカが仕掛けたこの戦争は十五年余に及ぶ。アメリカは千五百億㌦とも二千五百億㌦ともいわれた戦費を使い、延べ二百六十万人の兵士を動員して五万八千人の戦死者を出した。
この戦争の特徴として挙げられる報道の自由が保障されていたことで、生々しい戦闘シーンが連日テレビで流された。時折り、ジャングルや街の路上で、ボロ切れのように投げ出された死体をも写し出した。その映像は充分に戦争の悲惨さと空しさを我々に伝えた。
’69年の8月中旬の三日間、ニューヨーク郊外ベゼルの丘で開催された反戦と愛と平和をテーマにした「ウッドストック・フェテヴァル」には四十万人を越えるが人々が集まった。ジャニス・ジョプリンの歌声やデビュー間もないサンタナや、ジミー・ヘンドリックスのギターのエキセントリックなアメリカ国歌に、観客は熱狂した。
この頃、私は前衛演劇の制作に関わった。海外公演がきっかけで訪れたピッピ-のメッカ・アムステルダムのダム広場には、多くのピッピ-が居た。そして、彼等の哲学“ものには貧しくても、こころは豊かに…”の実践を目指して彼等と同じように旅に出た。
モロッコの古都フェズに近い砂漠で寝袋の中から見上げた満天の夜空には、息を呑むほど美しく大きな星が輝いていた。魔窟と言われたアルジェのカスバに潜り込み、心優しい人たちとの触れ合いもあった。モスクからのコーランの響きや、空と海の区別がつかない地中海の青さや、時の経つのを忘れてぼんやりと座っていたチェニスのカフェテラスなどで、次第に胸の内に昂揚して来るのは強烈なナショナリズムだった。
何度目かの帰国後、私は神社本庁の神職資格を得た。
’75年(昭和50)、アメリカはベトナムに七百五十万㌧の爆弾を投下し、七千五百万㍑の枯葉剤を撒き、三百三十万の人間を殺しながら敗北し、撤退した。
ベトナム戦争が終息したことで反戦の目標を失ったピッピ-たちは、心の平穏を望む一部の者を残し、街に帰り始めた。彼等は髪を切り、体にフィットする新しいジーンズとシャレたブレザー姿に変身してヤッピーとなった。更にシリコンバレーやハイテク関連や得意分野の事業などに参画し、成功者のシンボル・摩天楼のペント・ハウスを目指した。
その後も暫らくの間、私の旅は続いた。だが、秋の海辺のように旅先からフラワー・チルドレンの姿は消えていた。祖国や家族の元から去った者たちも、南インドのゴアやカトマンズやバンコクに定着した。
それからまた数年が過ぎ、私の師となる溝口似郎師に出会う。紹介者はある大手鉄鋼メーカーの関係者。「神の声が聞こえるひとだよ。伊勢神宮の徳川大宮司に、神道のなんであるかを説いているしね」そう言って二冊の本を渡してくれた。溝口師が著した『予言部隊長』と『極限の群像』。
『予言部隊長』には「神の実在を証明した」というサブタイトルがある。昭和十九年以降、近衛将校だった溝口師が中支から激戦地フィリピン・セブ島の海上輸送の部隊長として赴任して体験した、凄惨な戦場での記録である。
昭和二十年三月、セブ島に米軍上陸。敗走するジャングルのなかで、胴廻りが三十㌢以上もある大蛇が飲み込む日本兵の屍骸や、飢餓で気が触れた多くの兵士の姿が、地獄絵のように記されていた。テレビで見たベトナム戦争で銃弾に斃れた兵士の死に方が、遥かに幸せに思える死に様が描かれている。
そのような極限の状況において溝口師は神宮大麻を奉持し、天照皇大神への一心不乱な祈りが、しばしば驚異の奇跡を示現し、多くの部下を救い、自らも九死に一生を得ている。
今次大戦の戦死者は三百十万人。海外での戦死者は、軍人軍属二百十万人と一般邦人三十万人を合わせて計二百四十万人。このうち南洋での戦死者は百五十万人を越えるが、フィリピンでの戦没者が一番多く、五十一万八千人ものひとが亡くなられている。
南洋の戦場で悲惨なことは、食糧の補給が途絶え、銃弾を受け戦闘で戦死した以外の九割が、餓死と栄養失調で余病を併発して亡くなられていることだ。
溝口師は亡くなった戦友のためにかつての戦場だったセブ島に慰霊塔を建立している。更に激戦地・沖縄での慰霊祭や千鳥が淵で戦没者追悼祭なども行なっているが、私にも南洋諸島での戦没者慰霊を勧められ、その旅は二十回を越えた。以前、このコラムで紹介させて頂いたが、探索して見つけたテニアン神社跡地で大祓詞を奏上中、眼前の景色が突然セピア色に変わり、無言で頭(こうべ)を垂れる顔の見えない無数の英霊の姿を見るという奇秘(くしび)な体験もした。
溝口師が帰幽されて十四年が経つ。その間、ひたすら瞑想に明け暮れた五年間と、大学に戻って修学した六年半がフラワー・チルドレンとの距離を縮めてくれたように思うが、惟神の道を求める不肖の弟子の旅は、未だ続いている。
また、暑い八月十五日が巡ってくる。
(奈良 泰秀 H16年8月)